1ページ目から読む
2/8ページ目

 女の服装は、銘仙絣(めいせんかすり=鮮やかな色彩の絹織物で大正から昭和初期に流行した)と縞(しま)お召(ちりめんの一種)の袷(あわせ=裏の付いた着物)に緋縮緬(ひぢりめん)の友禅長襦袢を着て、繻珍(しゅちん)=繻子(しゅす)の地に模様がある織物=の丸帯を締め、真珠入りの金指輪をはめ、12円(現在の約3万2000円)余が入ったがまぐちを所持していた。髪はハイカラに結い、畳(敷物)付きの駒下駄を履いていて、薄化粧をした22歳ぐらい、色白の美人で、中流以上の令嬢ふう。男は紺ラシャ(毛織物の一種)詰め襟の洋服を着て、茶色スコッチ(ツイード)の鳥打ち帽(ハンチング)をかぶって赤靴を履いていた。頭髪を分けた年ごろ26~27歳ぐらい、運転手ふうの好男子。

 警察も取材記者も、衣服から中流以上の女性と見たに違いない。

 男の黒っぽい外套の隠しと女のお召コートのたもとには各々遺書1通があり、女のたもとには白さやの短刀があった。千葉署の斎藤警部補を訪問し、遺書の発表を求めたが、「人の名誉に関することだから、発表はできない」として応じなかった。取材した結果、男は東京・神田新白銀町31、貸し布団屋・加藤あき方同居、某華族の抱え自動車運転手・倉持陸助(24)で、女の身元は判明していない。前夜、終列車で千葉に到着。旅館「近松亭」こと加藤増次郎方に来て「加藤あきの親戚」と称して泊まり込んだ。7日午前9時ごろ起床。朝飯は食べず、午後3時までに酒3本を平らげた後、巻紙を取り寄せ、さらに女中に命じて千葉風景の絵はがきを買い求めさせ、それに遺書をしたためたという(千葉電話)。

「女の身元は判明していない」とあるが、倉持の身元が判明した段階で、「某華族」とは誰かは分かったはず。この時点では配慮したのだろう。

「千葉心中」地図。「女子師範学校敷地」右上の鉄道と道路のぶつかった所が現場か(「絵にみる図でよむ千葉市図誌上巻」より)

続報での身元判明…表現から浮かび上がる“身分”

「芳川伯邸の 大騒ぎ 今晩岡喜七郎氏等(ら)千葉へ急行す」の中見出しで続報を載せている。

ADVERTISEMENT

 本社は各方面に向かって精探(精力的に探索の意味か)した結果、婦人は(東京都)麻布区宮村町67、正二位勲一等伯爵、枢密院副議長、芳川顕正氏の養子である子爵、曽彌安輔氏の実弟、寛治氏夫人・鎌子(27)=伯爵の三女=で、長女明子(5)があり、男は同邸の自動車運転手・倉持陸助(24)であることを突き止めた。

 ようやく身元が判明した。事件が東朝の特ダネになったのは、他紙に先行して身元の割り出しに成功したからだった。「女」が「婦人」になり、「男」はそのままであることや、回りくどい身元の表現の仕方が、当時の新聞の華族に対する視線を明確に表している。

 枢密院は天皇の諮問機関。その副議長という天下の大官だから当然の配慮だったのだろう。「伯爵の三女」は四女の誤り。続いていささか不可解な展開になる。