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「6日の晩8時ごろに伯爵家の自動車(運転手)部屋で陸助が酒を飲みながら、何か深い思案にくれて男泣きに泣いていたが、ふと杯を置いて外出しようとするので、ほかの運転手が奥様に知れると悪いと思って止めると、それを振り切って外出して帰らなかった」

 鎌子の姿も見えず、その運転手は、父親のところへでも行っているのだろうと思ってそのままにしていたが、その晩はとうとう帰らなかった。その時、2人はどこかで申し合わせて家出したらしいという。

あらわれはじめた「評判」

 気になるのは、この段階で早くも鎌子についての悪評が登場していること。報知は「變(変)な奥さん 嫌な奥さん と近所の噂」の小見出しで、近くに住む主婦の話を載せている。他方、返す刀で「某友人」の話を伝え「寛治氏も評判が悪い」とバッサリ。

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 2人についての情報を詳しくまとめているのが芸能界や花柳界に強い都新聞だ。

 鎌子夫人は伯爵家の第4女で、長女・新子(41)、次女・勢以子(37)はいったん他家に嫁したが、子細があって離縁となり、2人とも目下同家にいる。3女・富子(36)は藤田平太郎男(爵)夫人。かくて鎌子は伯爵の後嗣となり、学習院女学部卒業後、17歳のとき、岡喜七郎氏の媒酌で寛治氏と結婚した。寛治氏は(東京)高商(現一橋大)出で、目下三井物産の総務課に勤めていて、敏腕家の聞こえが高い。従って花柳界にもしばしば出入りし、いまは岩倉公爵の次男具高氏に身請けされている元赤坂芸者・千代菊が7~8年前、新橋で半玉(芸者見習い)をしていた際、通い詰めて一時築地に囲い、両人の間に男の子までもうけたことがあった。鎌子は派手好きな女で、目下の者にはよく金銭、物品などを与えた。同家の別邸は鎌倉と市外柏木(現新宿区)の2カ所にあり、日曜などには鎌倉に赴き、他の日は柏木にしばしば赴き、その際の運転手は常に今回心中した倉持だった。

遺書の行方は…

 3月9日朝刊では読売以外の全紙の報道が出そろった。各紙報道で驚くのは、萬朝報が鎌子を“殺してしまった”こと。「鎌子の経過はその後だんだん悪くなって、8日夜7時10分というが、ついに絶命してしまった」と書いた。翌10日付に訂正記事を載せているが、誤報の原因は分からない。

 その萬朝報は9日付朝刊では、岡喜七郎から聞いた話をそのまま報じている。岡は「鎌子は平素内気な温良な女で口数も少なく、夫婦仲は円満に見えた。倉持と関係があったとは思われない。私は疑問と思う」と強弁。事件を矮小化しようと腐心している印象だ。さらに岡に絡んで重大なのは、遺書の処分。9日付東朝は「二人の遺書は 直(ただち)に焼き棄つ」の見出しでこう書いている。