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“強盗殺人9件、強盗傷害と強盗は50件以上”…公式記録でもたどりきれない犯人の“残虐性”はどこから来たのか?

“強盗殺人9件、強盗傷害と強盗は50件以上”…公式記録でもたどりきれない犯人の“残虐性”はどこから来たのか?

稲妻強盗#2

2023/02/19
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 20世紀の直前、茨城、千葉、東京、埼玉で連続して起きた強盗事件が社会を震撼させた。北海道の監獄から脱走。ピストルと刀を手に押し入り、女性を暴行。抵抗に遭えば躊躇なく殺人を重ねた。

 犯行は強盗殺人9件、強盗傷害と強盗は50件以上ともいわれるが、正確な数は分からない。1日に48里(192キロ)を走る超快足で荒らし回ったとされ、「稲妻強盗」という呼び名もつけられた。公式な記録でも情報が錯綜している犯人・坂本。120年前に現れた残虐な強盗犯は、いかにして逮捕されることになったのか――。

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「稲妻強盗」の犯行にあった2つの特徴

「稲妻強盗」の犯行には特徴があった。「史談裁判第3集」によれば、その1つは押し入った家で重箱や升など、箱型のものを見つけ、その中にロウソクをともすこと。相手の顔は見えるが、自分の顔は相手には見えない。

 もう1つは、坂本膳兵衛方でも見られたことだ。加太こうじ「伊藤博文と稲妻強盗」=「『明治』『大正』犯罪史」(1980年)所収=はこう書いている。

「稲妻強盗として働くときの坂本は、犯行の前に、忍び込んだ家で必ず飯を食べた。逃走して山の中へ逃げ込んでも、半日ぐらいは空腹を感じないで歩けるように、腹いっぱい飯を食っておくのが強盗稼業のコツだと決めていた」

 それだけではなく、度胸が据わっていることを強調する“虚勢の儀式”だったのではないか。

押し入った家で飯を食う稲妻強盗(「報知新聞探偵実話 稲妻強盗前編」の挿絵)

ついに逮捕の時が…

 そんな坂本が逮捕されたのは1899年2月18日(一審判決では2月19日)。速報したのは福澤諭吉が創刊した時事新報だけだったようだ。19日付3面の「電報」欄に「稲妻強盗就縛 浦和二月十八日午後特發(発) 豫(予=かね)て噂高き稲妻強盗は縣(県)下幸手町にて捕縛されたり」(原文のまま)。

「稲妻強盗就縛」の速報(時事新報)

 翌20日付では萬朝報と時事新報が「就縛の詳報」を載せている(時事新報は坂本の似顔絵入り)。いまで言う速報だろう。ただ、どういうわけか、2紙とも幸手町(現幸手市)の木賃宿に泊まっていたのを旅舎検(宿泊施設検索)に来た巡査に逮捕されたことになっている。

「就縛詳報」に添えられた似顔絵(時事新報)
「稲妻強盗」逮捕の瞬間か(「近世探偵実話集第1稲妻強盗坂本慶次郎」より)

 実際は浦和町の材木商方に強盗に入って家人に取り押さえられたのだが、どうしてそうなったのか不明だ。報知は2月24日付から「稲妻強盗捕縛餘聞」を連載しているが、これも状況はだいぶ違う。取材競争の中で内容が不確定のまま書いたのだろうか。“あることないこと”書き散らしたものもあると思われる。比較的確実な「警視庁史第1(明治編)」に頼るしかない。

 打ち続く凶行にもかかわらず捜査は一向に進展せず、全く行き悩んでいたとき、(警視庁)第二部第一課の白井、兼子両刑事が、(東京・)洲崎遊郭の田中楼の抱え娼妓・深雪のもとに足しげく通って、芸者まで呼んで豪遊する斎藤賢次(35)という男があったが、ある夜、遊興中、深雪に向かって「一体、俺は何の商売に見えるか」と言うので、「そうね、旦那は巾着切り(きんちゃくきり=スリ)か泥棒、そうでなかったら強盗でしょう」と冗談を言うと、賢次は表面は笑っていたが、顔面が蒼白になり、額に脂汗さえにじませていた様子で、そのまま慌てて帰って行ったきり、姿を見せなくなったということを聞き込んだ。