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小島秀夫が観た『シェイプ・オブ・ウォーター』

映画に愛された“シェイプ・オブ・クリエイター”の物語

2018/02/25

genre : エンタメ, 映画

note

分業で作られたものに、発明と呼べるものはない

 ブロックバスターの超大作(ゲームで言えば、AAA=トリプル・エーの大作)を、リスクを回避しつつ、確実にヒットさせる。そのためには経済性と効率性が最優先される。

 結果、オリジナリティのあるクリエイティビティや、作り手の色や形(シェイプ)のついた作家性は、マーケティング主導の、工場のようなラインでの制作工程では、邪魔になる。

 監督という、作品を導く(ディレクションする)クリエイターは、大勢のスタッフを捌く「仕切り屋」(=職業監督)の役割を求められることになる。

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(C)2017 Twentieth Century Fox

 今や、ハリウッドの大作では、音楽やコンセプトアートなどのクリエイションも似たようなものになっている。短期間に成果物をあげるために、複数のスタッフやチームが分業することになる。かつては、例えば、H・R・ギーガーが『エイリアン』において、エイリアンのデザイン・ワークをトータルで手がけ、永遠に残るクリーチャーを創出したが、それも過去の話だ。作曲家も、バーナード・ハーマンやジョン・ウィリアムズのような関わり方ではなく、複数人によるチームで楽曲づくりを“担当”するようになっている。作品トータルへの関わりではなく、まさに部分を“担当”するのが今の映画制作の現場なのだ。

 それは巨大な工業製品を大人数で作るようなものである。規格にあったネジや歯車を決められたマニュアル通りに作ることが大事で、独創的な三角や四角の歯車を作ることは求められない。

 きちんと動く製品はできるが、そんな環境から、新しいもの、誰も見たこともないもの、発明と呼べるものはでてこない。

ゲーム業界に「監督」はいるのだろうか?

 この傾向は、ハリウッドよりもゲーム業界の方が顕著だろう。殊にAAA作品においては、分業の制作体制が確立し、キャメロンやデル・トロのように企画から全てをディレクションし、クリエイトする「監督」は、ほぼいないと言っていいだろう。いや、必要とされてもいない。ここにゲーム業界が陥っている罠がある。分業(ライン)による生産とデジタルによる制作は、効率という面で相性がいい。故に「監督」は、ハリウッド・メジャー映画のような「仕切り屋」でいい。企画、原案、製作、脚本、音楽などから、プロモーションまで手をかける「監督」は、時間とコストがかかるだけで、効率化に適さない。企業にとっても無益だ。

 一見正論に思える、このような考え方は、大いなる誤解だ。

(C)2017 Twentieth Century Fox

 また、この考えを別の面から見ると、デジタルで効率的に作られたものには作家性が宿らず(ただの商品)、アナログ的に手間暇かけたものはそうではない(創作物)、という誤解にも通じる。アナログだろうがデジタルだろうが、ツール(手段)であることに変わりはない。それをどう使うかに、商品と創作物の差が現れる。ただのコピーや類似品と、本当に新しい発明品との差が現れる。

私が「A HIDEO KOJIMA GAME」と記す理由

 映画もゲームも、ユーザーの人生の時間を少なからず占めるエンタテインメントだ。そこには“愛”がなくてはならない。一人の魂を持った人間が、無数のまだ見ぬ観客に、作品を通じて“愛”を届ける。そのためには、作品のすべてに作り手の魂を込めなければならない。

 デル・トロが「“愛と映画”を深く愛する人のために作った」本作の冒頭に「a Guillermo del Toro Film」と掲げたのは、自己顕示のためなどではない。作品に込めた“愛”と“魂”が誰のものなのかを宣言する署名なのだ。エンドロールをよく観て欲しい。デル・トロの名前が何度出てくることか! そこには、作品に対する自負と責任と溢れんばかりの“愛”が込められている。

(C)2017 Twentieth Century Fox

 私が自分の作品の冒頭に「A HIDEO KOJIMA GAME」と記すのも、同じである。
「“愛とゲーム”を深く愛する」ユーザーに、小島秀夫という人間が、自分の全てをつぎ込んだ“愛”と責任とを込めたゲームを届けたいのだ。

 ハリウッドは、今のゲーム業界に比べれば、 “工場のライン長”に、才能のある新人監督をインディーズからスカウトしてくるだけ、少しはマシかもしれない。