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低打率にあえぎながら苦闘するヤクルト・長岡秀樹の姿に思い出す、80年代の“ある選手“のこと

文春野球コラム ペナントレース2023

2023/08/16
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ヤジってしまった自分を後悔、そして謝罪

 当時、高校2年生だった僕は、渋井が打席に入るたびに「あぁ、無条件でワンアウトだ」とイライラしていた。学校をサボって神宮に行っても、やはり渋井は凡打の山を築いていた。そこで、「渋井、たまには打てよ!」とヤジってしまったこともある。あの当時は、本当に渋井に対して苛立っていたのだ。

 しかし、年齢を重ねて、僕自身も大人になった後に、遅ればせながら渋井さんの魅力が理解できるようになった。確かに打てなかったけれど、あの堅実な守備力は立派な戦力だった。さらにこの年、彼はリーグ最多となる35犠打を記録している。池山隆寛、広沢克己というスター選手の陰には、決して派手ではないけれども、陰で支える存在も大切なのだと理解できるようになったのである。

 そこで、すでに野球界から離れて家業の建築会社を継いでいる渋井さんに会いに行き、「あのときはすみませんでした」と謝罪する顛末を原稿に書いたこともある。このとき、渋井さんは言った。

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「仕方ないよ。子どもには理解できない選手だったと思うし」

「まぁ、仕方ないよ。子どもには理解できない選手だったと思うし……」

 さらに、87年の打率.198に対して「こんなヤツがレギュラーだから、ヤクルトは弱いんだ」と毒づいていたことを詫びる。

「ハハハ、そうだよね、確かに。もうちょっと打ってもよかったと自分でも思う(笑)」

 ご本人に謝罪できて、長年の胸のつかえが下りた気がした。そして、無礼で失礼な態度を取ってしまったにもかかわらず、何も気にせずに笑って許してくれた渋井さんの偉大さを改めて感じたものだった。

「怖さ」とともに、さらなる成長を!

 先日、髙津臣吾監督にインタビューした際に長岡の話題となった。不振にあえぐ打撃と堅実な守備を天秤にかけた上で、「やはりあの守備力は頼りになる」と話した後に、苦笑交じりで、「でも、もう少し打ってほしいけどね……」と監督は笑った。僕は「87年の渋井」のことを思い出して言った。

「でも、1987年の渋井敬一さんはもっと打てませんでした。何しろ、シーズンを通じて出場したのに、打率は.198でしたから……」

 渋井さんと髙津監督は、数年ながらも野村克也監督の下、ともに現役時代を過ごしている。髙津監督は言った。

「でも、渋井さんも、苦労したんだな……」

「え、そうなの? よく知ってますね、そんなことまで(笑)。でも、渋井さんも、苦労したんだな……」

 この話題はこれで終わった。取材時における、ほんのささいなやり取りだった。このやり取りを、監督がどのように受けとめたのかはわからない。また、当の長岡にとっては、自分の父親よりも年上だと思われる渋井さんの存在を、そもそも知らないだろう。

 しかし、ヤクルトには現在の長岡同様、低打率にあえぎながらも、試合に出続けて奮闘した偉大な先輩がいるのである。あの頃、僕は渋井さんの苦悩と奮闘を何も理解していなかった。当時の渋井さんは、プロ10年目の28歳だった。一方の長岡はまだプロ4年目、来月22歳となる発展途上にある存在だ。

がむしゃらにプレーする時期を経て、「怖さ」を感じてからが、本当の勝負の始まりだ!

 今年のキャンプ中に行われた『週刊ベースボール』のインタビューでは、守っていても「全部不安です」と語り、「毎球(打球が)飛んでくるなと思います」と率直な思いを述べている。打撃に関しての言及はないけれど、今も「怖さ」を感じながらプレーしているのかもしれない。怖いもの知らずにがむしゃらにプレーする時期を経て、「怖さ」を感じてからが、本当の勝負の始まりだ。

「怖さ」とともに、今日もグラウンドでその雄姿を見せてほしい。苦闘の果てには、必ず希望がある。そう信じて、僕は今日も神宮球場で長岡の雄姿を見守っている。長岡には未来がある。長岡には可能性がある。長岡はまだまだ成長する――。

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