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「息子は、二十歳になるはずだった」大川小遺族の7年間

いい判決を肴に息子と酒を酌み交わしたい

2018/03/11

〈20才になったぼくは仕事を見つけましたか。今ぼくたちの時代は就職氷河期なので、いい仕事についていてほしいです。ところで話は変わりますが、ぼくはまだゲームやまんがを集めてますか。ぼく的には集めててほしいです。ぼくが20才になるころには珍しいゲームなどが売っていると思うんでそこらへんは集めててほしい。また●●●君(※亡くなった同級生)とは友達ですか。友達じゃなくなっていたら、この手紙を読んだあとよりを元してください。 大輔より〉(原文ママ) 

 この作文「二十歳の大輔へ」は、宮城県石巻市立大川小学校の6年生だった今野大輔君(当時12歳)が書いたものだ。だが、大輔君は2011年3月11日に、東日本大震災による津波で亡くなった。今年の誕生日を迎えることができていれば、20歳になり、来年、成人式を迎えるはずだった。

今年は、仏壇には、日本酒とタバコ、ライターをお供えした

 「自分の中ではずっと小6のままだ」 

 こう話すのは父親の浩行さん(56)。今年の3.11前は特別だったのか、仏壇に日本酒「独眼竜政宗」と、タバコ、ライターを供えた。いつもは大輔君が好きだったお菓子だが、成人を迎えることを意識していた。 

「テレビを見たり、酒を飲んだり、家族連れを見たりして、ふと涙が溢れることがある。体形がそっくりな子どもを見ると思い出すことがある。ただ、気持ちとしては、控訴審の最終陳述でも『いい判決を肴に息子と酒を酌み交わしたい』と言ったが、そんな気分です」 

 大川小の震災時の校舎は、石巻市の中心部から車で約40分のところにある。国道45号から県道を新北上川沿いに走り、20分ほど。「平成の大合併」前は旧河北町の、かつては宿場町だった釜谷地区にある。海岸線からは約4キロに位置し、海は見えない。海抜は約1メートル。 

 震災当時は全児童数108人だったが、児童の70人が死亡。4人は行方不明だ。教職員10人も津波によって亡くなった。震災当日の14時46分、激しい横揺れが起きた。学校では「帰りの会」が行われていたり、下校をしようとしている子どもたちがいた。

大川小の校舎。2階は教室があった。

大川小では津波の避難訓練をしたことがない

  当時、校長は不在だったために、震災対応は教頭が中心に行なった。先生たちの指示で子どもたちは机の下にもぐった。揺れが収まると校庭に集合することになる。マニュアルでは「震度6弱以上を観測した場合は、原則として保護者引き渡し」となっていた。しかし、周知徹底されず、個人の判断で保護者が迎えに来た子どもたちもいた。欠席した子どももいたために、津波がくるまで学校にいた子どもは78人だった。 

 また、津波警報がラジオで流れていた。市の広報車も「大津波警報」を告げ、「高台へ避難してください」と呼びかけていた。大川小では津波想定の避難訓練をしたことがない。マニュアルでは、津波などで避難している校庭が危険な場合は、【近隣の空き地・公園等】へ二次避難することになっていた。しかし、「空き地や公園等」は具体的にどこを指すのかは明らかではなかった。