文春オンライン

「ピカドンの話はお袋が夏になるとポロポロと話してくれた」…カメラマン・三浦憲治(74)が8月6日のヒロシマを撮り続ける理由

ミウラヒロシマ2023

note

 何より広島での撮影は楽しい。難しく考えないで、いつも撮っているライブみたいに撮ろうと思って。平和記念公園や原爆ドームはもう何百回も撮影しているけれど、行くたびに雰囲気が違う。市電に乗ってみると、広島の風景も変わりつつあって、そういう発見があるのも面白いし、楽しいよね。

――三浦さんのお父様やお母様は原爆被害に遭われたのですか?

三浦 俺の実家は原爆ドームから少し離れた比治山の東側にあったんだ。比治山が爆風を遮ってくれたから運よくお袋も親父も無事で。中学生くらいの時に聞くとお袋はポロポロと惨状を話してくれたよ。

ADVERTISEMENT

お袋が話をしてくれたピカドンが落ちたヒロシマ

 お袋が言うには、家の隣に爆弾が落ちたんじゃないか、っていうくらいの爆風で、家の中にいたけれど6メートルくらい吹っ飛んで土間まで飛ばされたらしい。子供の頃、家の入口から離れた食器棚にガラスが刺さっていて不思議に思って聞いたら「ピカドンのせいよ」と言われたことがあった。広島の人って「ピカドン」っていうんだけれど、なんでこんなところに、っていうところにガラスが刺さっていて驚いたね。

 原爆が落とされた直後はシーンとしていて何も音がしなくて、しばらくすると髪の毛がない人、裸同然で歩いている人、それから着物を着ているのかな、と思ったら体の皮がむけて大ヤケドを負った人がウチまで「水を飲ませて下さい」と助けを求めてきたらしい。

 そんな話を聞いていたから俺も子供の頃、原爆資料館に通って、話を聞いたり勉強していた。ジョン・ハーシーが雑誌『ニューヨーカー』で発表したレポートは分かりやすかったしハーシーのように、被害者が歩いた道を自分でも歩いたよ。

――とても身近にあったんですね……。

三浦 そうそう。それで毎年8月6日になると朝4時とか5時くらいに親父に連れられて平和記念公園に行っていた。それに比治山やABCC(原爆傷害調査委員会)がある場所は俺たちの遊び場だったし、今写真を撮る時は子供の頃見た広島の風景が頭の中に甦ってくる。