日本が太平洋戦争の終結を迎えた1945年から今年で78年が経つ。明治維新を経て誕生、20世紀半ばに向かって拡大を続けた大日本帝国はいったいどのように崩壊へと至ったのか。
ここでは近現代史に関する取材・執筆・編集を行う太平洋戦争研究会の著書『写真が語る銃後の暮らし』(ちくま新書)の一部を抜粋。終戦に向かう日本の実情を貴重な写真とともに振り返る。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
希望的観測に満ちた終戦工作
日本の敗戦は、少なくとも日本への空襲が本格化した時点で明らかだった。1943(昭和18)年11月にルーズベルト米大統領とチャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席が集まったカイロ会談の結果、翌12月に日本の無条件降伏まで戦い抜くことを宣言した。1945年2月には、ルーズベルト、チャーチル、そしてソ連首相のスターリンでヤルタ会談(クリミア会談)が開かれ、ドイツ降伏後、2、3カ月でソ連が対日参戦することが密約された。
ソ連は同年4月、日本に対して翌1946(昭和21)年に期限切れとなる「日ソ中立条約」の不延長を申し入れた。ところが、日本はそのソ連に和平交渉を申し入れた。米英から有利な講和条件を引き出せるのはソ連しかないという日本首脳の判断だった。また、どこかで連合軍に一撃を加えれば、講和条件も良くなるのではないかという淡い期待もあり、一方で日本軍は来るべき本土決戦の準備を進めていた。その間、ソ連軍によりベルリンが陥落し、5月7日にドイツが降伏した。
ソ連は当然ながら、日本からの和平交渉の依頼を相手にせず、ただノラリクラリと時間が過ぎるのを待ち、日本はやきもきしながらソ連の返事を待つことになった。そうこうするうちに、7月26日には、米英中によって日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が出された。スターリンは会議に参加しているが、まだ参戦前だったため、表に名前は出ていなかった。
ポツダム宣言を受諾するかどうか議論した結果、日本政府はこの期に及んでも、ソ連の返答もまだ来ていないので、しばらく様子を見ようということになった。