二度の「聖断」で無条件降伏が決まる
8月9日午前11時過ぎ、長崎への原爆投下の1時間ほど前から、東京では最高戦争指導会議構成員会議が開かれていた。ポツダム宣言受諾を巡って条件付きでなければ受諾できないとする陸軍と、無条件で受諾すべきだとする政府・海軍とで意見は真っ二つに分かれた。
昭和天皇が和平を求めていることを知っていた鈴木貫太郎首相(1945年4月7日に就任)ら終戦派は、天皇の「聖断」によって終戦に導こうと考えた。そして8月9日深夜に御前会議が開かれ、日付が変わった10日午前2時、意見が出尽くしたところで鈴木首相が聖断を請うと、天皇は明快にポツダム宣言受諾の意志を示した。
ところが、外務省が連合国に「天皇の地位に変更がないと了解(解釈)してポツダム宣言を受諾する」旨を打電したところ、米国の返答、いわゆる「バーンズ回答」で、天皇および日本政府の権限は「連合国最高司令官に隷属する」とされたものだから、軍部はこれでは「国体護持」は貫かれないと反発。受諾拒否、本土決戦を叫び始めて再び会議は紛糾した。
事態を収拾したのは天皇の二度目の「聖断」だった。8月14日午前11時から御前会議が開かれ、受諾派と反対派の意見がそれぞれ述べられた後、鈴木首相は再び天皇の判断を仰いだのである。
ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせるという天皇の意志は不変で、梅津美治郎参謀総長のメモによれば、「国体の護持については敵も認めて居ると思う、毛頭不安なし」と問題にせず、天皇自身がラジオ放送を通じて降伏を国民に周知しても良いとまで言った。ここに、ポツダム宣言受諾が決まった。
8月15日早朝からNHKは、正午に「重大放送」があることを繰り返し伝えていた。国民も戦地の将兵もラジオの前に集まり威儀を正してその時を待った。
そして天皇の声が流れ出し、「……茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇(そ)四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と述べた。「共同宣言」が何を意味するのか知らない国民は、何のことか分からなかった。やがて、「戦局必ずしも好転せず」とか「時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」のくだりになって、ようやく「日本が負けたのだ」と悟ることができた。国民の多くは思いもかけぬ敗戦を知らされ、愕然とした。皇居前には、土下座して泣く「臣民」の姿が多く見られた。そして午後3時20分、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。