1945年8月15日、第二次世界大戦が終結した。あれから78年。当時の“リアル”な様子を貴重な写真とともに振り返る――。

 ここでは、近現代フォトライブラリーを主宰する戦史研究家・平塚柾緒氏が代表を務める太平洋戦争研究会による『写真が語る銃後の暮らし』(ちくま新書)の一部を抜粋。第二次世界大戦下、当時の日本で撮影された写真を一挙掲載する。(全2回の1回目/続きを読む)

金庫だけが焼け残る瓦礫と化した東京の中心地、丸の内のビル街 

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日本焦土作戦開始

 太平洋戦争の末期に日本本土の主要都市を爆撃し、軒並み焦土に変えていった超大型爆撃機ボーイング社のB29スーパーフォートレス(超空の要塞)の開発がスタートしたのは第二次世界大戦が勃発して間もない1939(昭和14)年11月のことだった。試作機XB29は1942(昭和17)年9月21日に初飛行し、2年後、中国の成都を基地として日本本土への空襲が行われることになった。

 成都からの日本初空襲は1944(昭和19)年6月16日、北九州の八幡製鉄所に対して行われた。その後、三菱重工業長崎造船所や東洋一の規模を誇る第21海軍航空厰(長崎県大村市)などが標的となった。しかし、成都からの出撃では北九州を狙うのが精一杯だった。だが米軍は日本本土全域を直接攻撃できるマリアナ諸島を手に入れた。ここから米軍の日本焦土作戦が始まることになる。

 マリアナ基地から発進するB29の日本本土への空襲は1944年11月から始まり、当初は軍事施設などを標的とした精密爆撃が行われていた。だが精密爆撃はあまり効果を上げず、米軍は日本国民の厭戦気分を高めるためにも、都市に対する無差別空襲を断行した。その最初の標的となったのが、1945(昭和20)年3月10日の東京への大空襲だった。

1945年3月10日午前0時過ぎ、300機以上のB29爆撃機が本所・深川・浅草など東京の下町一帯に無差別爆撃を行った(東京大空襲)。この日の被害だけで死者8万人(10万人とも)以上、負傷者は4万人以上に及んだ。写真は焼け野原と化した浅草周辺。東京(三多摩・伊豆諸島等を含む)は終戦までに122回に及ぶ空襲に見舞われた
3月10日の空襲は約2時間半にわたり、罹災者は100万人を超えた。写真は消火活動が続けられる東京・有楽町

 木造家屋用に新たに開発した焼夷弾を搭載した約300機のB29が低空から市街地の上空に侵入し、現在の台東区、墨田区・江東区・江戸川区など下町一帯に焼夷弾の雨を降らせた。東京の約三分の一が焦土と化し、死者8万人以上、負傷者4万人以上の犠牲を出した。