沖縄本島への上陸は1945年4月1日だった。日本軍守備隊は牛島満中将の第32軍の約8万6000人、それに中学生以上の沖縄県民で編成した防衛隊や義勇隊などが、後方支援にあたった。女学生も衛生兵として戦場に投入された。
沖縄の戦いには最初から前線と銃後という区別がなかった。米軍は読谷、嘉手納の両飛行場正面の海岸に上陸したが、そこは村民の暮らしていたところだった。
日米の戦いは沖縄県民を巻き込んだ戦いとなった。沖縄守備軍の陸軍部隊である第32軍は、必死の抵抗を試みた。日本軍は小部隊ごとに無数にあるガマ(洞窟)を利用して迫り来る米軍を射撃し、突撃を繰り返した。ガマはまた、首里方面から下がってきた県民や、もともとその付近に住んでいる村民にとって避難壕となった。たまたま部隊と一緒のガマに入った県民(女性や子ども、老人が中心)は、戦闘の邪魔であるとして追い出されたり、殺されたりした。
ガマに入れなかった、あるいはそこから追い出された人々は沖縄本島南端のギーザバンタ(摩文仁の丘の断崖から具志頭城跡の断崖に連なる幅1キロ、長さ4キロの平野)や喜屋武岬に押し込まれ、断崖から投身するもの、岬から入水するものが続出した。米軍はギーザバンタを「スーサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼んだ。
第32軍の組織的抵抗は6月23日、牛島軍司令官と長勇参謀長が自決して終わりを迎えたが、生き残った将兵は日本が降伏する日まで戦い続けた。犠牲者は沖縄本島だけで6万5000人の日本兵が戦死、住民の戦没者は12万人(諸説ある)。県民の3人に1人が戦没したという説もある。