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終戦、78年目の夏

〈写真多数〉14歳で捕虜になった動員学徒、金庫だけが焼け残る瓦礫と化した丸の内…1945年の日本人が目にしていた“絶望的な光景”

〈写真多数〉14歳で捕虜になった動員学徒、金庫だけが焼け残る瓦礫と化した丸の内…1945年の日本人が目にしていた“絶望的な光景”

『写真が語る銃後の暮らし』より #1

genre : ライフ, 社会, 歴史

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 沖縄本島への上陸は1945年4月1日だった。日本軍守備隊は牛島満中将の第32軍の約8万6000人、それに中学生以上の沖縄県民で編成した防衛隊や義勇隊などが、後方支援にあたった。女学生も衛生兵として戦場に投入された。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師18人・生徒222人で構成された「ひめゆり学徒隊」(写真)。救急看護衛生班として前線に動員され、136人が命を落とした(提供:那覇市歴史博物館)

 沖縄の戦いには最初から前線と銃後という区別がなかった。米軍は読谷、嘉手納の両飛行場正面の海岸に上陸したが、そこは村民の暮らしていたところだった。

日本軍守備隊は兵力の補充として14歳から19歳の男子中学生を動員、「鉄血勤皇隊」と「通信隊」を編成して実戦投入した。写真は捕虜となった防衛隊の老人と動員学徒

 日米の戦いは沖縄県民を巻き込んだ戦いとなった。沖縄守備軍の陸軍部隊である第32軍は、必死の抵抗を試みた。日本軍は小部隊ごとに無数にあるガマ(洞窟)を利用して迫り来る米軍を射撃し、突撃を繰り返した。ガマはまた、首里方面から下がってきた県民や、もともとその付近に住んでいる村民にとって避難壕となった。たまたま部隊と一緒のガマに入った県民(女性や子ども、老人が中心)は、戦闘の邪魔であるとして追い出されたり、殺されたりした。

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 ガマに入れなかった、あるいはそこから追い出された人々は沖縄本島南端のギーザバンタ(摩文仁の丘の断崖から具志頭城跡の断崖に連なる幅1キロ、長さ4キロの平野)や喜屋武岬に押し込まれ、断崖から投身するもの、岬から入水するものが続出した。米軍はギーザバンタを「スーサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼んだ。

沖縄各地にある自然に作られた洞窟(ガマ)は住民の避難場所や日本軍の陣地、野戦病院として利用された。壕内では米軍に追い詰められた住民が集団自決(強制集団死)するという悲劇も起きた。写真は退却した日本軍の装備が残るガマを調べる米軍兵士(沖縄県公文書館所蔵)

 第32軍の組織的抵抗は6月23日、牛島軍司令官と長勇参謀長が自決して終わりを迎えたが、生き残った将兵は日本が降伏する日まで戦い続けた。犠牲者は沖縄本島だけで6万5000人の日本兵が戦死、住民の戦没者は12万人(諸説ある)。県民の3人に1人が戦没したという説もある。

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