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 その後、都市無差別空襲は名古屋・大阪・神戸と続き、やがて地方都市も空襲に見舞われた。

1945年5月29日、横浜に焼夷弾を投下するB29の編隊。攻撃目標が工業地域から主要都市の市街地へと変わった

 なお、本格的な無差別爆撃が始まる前、日本軍はB29を撃ち落とす有効な手だてがなかったにもかかわらず、B29の損害は少なくなかった。それは機体トラブルが後を絶たなかったためである。北九州への初爆撃のとき、成都を飛び立ったB29は75機だったが、28機がエンジントラブルなどで脱落しているし、マリアナから東京への初空襲でも111機が離陸したが、東京上空に達したのは88機だった。

1945年6月1日、大阪の臨港地区への昼間大爆撃。大阪は3月から8月まで8度にわたる大空襲(100機以上のB29による爆撃)を受け、一般市民約1万5000人が犠牲となった

 そこで米軍が目を付けたのが、マリアナ諸島と東京のほぼ中間に位置する南北4キロの小さな火山島・硫黄島であった。ここに飛行場を設ければB29の中継基地として利用でき、また、航続距離の短い戦闘機の出撃基地として使えて、本土空襲のときのB29の護衛に付けることができる。このために起きたのが、硫黄島の戦いである。

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 米軍は1945年2月19日から攻撃を開始し、日本軍守備隊と死闘を繰り広げたが、3月26日、守備隊の玉砕によって硫黄島を奪取した。

本土防衛の盾となる沖縄

 フィリピンの決戦に敗れ、硫黄島に米軍が進攻すると、いよいよ本土決戦の可能性が高くなったが、その前に本土防衛の盾となる沖縄が激戦地となった。

1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。6月23日に組織的戦闘が終結するまで、日本本土で唯一の住民を巻き込んだ地上戦が展開された。沖縄戦では軍民合わせて約20万人の犠牲者を出し、そのうち沖縄県出身の軍人・軍属約2万8000人、一般県民約9万4000人が亡くなった。写真は沖縄本島中部の西海岸から上陸する米軍の第1陣