太平洋戦争史を振り返ると、日本人特有の「戦い方」が敗因となったケースは数多く存在する。成功体験から抜け出せずに同じ戦い方を繰り返す、方針転換ができず泥沼にはまり込む、想定外に弱く奇襲されると動揺して浮き足立つ……。そうした特徴は、今日の会社や学校などの組織でも頻繁に見られることではないだろうか。
ここでは、軍事研究家の藤井非三四氏による『太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方』(集英社新書)の一部を抜粋。戦時下の日本において、異常なまでの我慢を強いられ続けた人々について紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)
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限界を超えた負担を強いられた兵員
戦争が長引き、損耗が重なれば、補充兵の比率が高まるのは当然だ。満足な訓練も受けていない乙種の者が主体となる補充兵に対して、甲種で本格的な訓練を受けた現役兵と同じ戦力の発揮を期待することには無理がある。補充兵はすぐにも行軍に問題を生じさせる。資材や糧食など30キロを背負い、4キロの小銃を肩にし、慣れない革製の編上靴で歩幅75センチ、1分間に114歩、45分歩いて15分の小休止という行軍をすれば、すぐに足にマメが生じる。アキレス腱のあたりに靴擦れができると、我慢の問題ではなくなり歩行不能となる。
戦地に行けば歩くだけではない。日本軍の多くを占める歩兵は、1日に2回、自ら炊事をする必要がある。朝は2食用意し、うち1食は昼食用だ。携行した糧食を食べ尽くせば、自力で食物を現地調達しなければならない。炊事に使う水や薪も自分の足で探す。馬を連れていれば、多くの水を用意して、まずその世話からする。こんな毎日が続けば、補充兵が落伍するのも無理はない。外地における戦地での落伍は即、死を意味するから、それならばと自決するという痛ましい結果になる。相応な準備もなく、ただ漫然と戦線を拡大したツケは兵員に回される形となったわけだ。
狭い空間に押し込められる船舶輸送
軍当局は兵員の体力維持や健康管理に関心を寄せず、ただ目先の効率だけを追求していた。そうした姿勢は兵員の船舶輸送で如実に現れ、部隊側からも強く批判されていた。軍隊輸送には居住や炊事、そして衛生などの諸設備が整っている客船や貨客船を充てるのが各国の通例だ。ところが世界第3位の商船隊を保有していた日本でありながら、文化程度が低く、かつ経済効率を最優先していたため、客船の保有量はごく限られていた。しかも、艦艇不足に悩む海軍は大型客船などを空母に改装したり、特務巡洋艦に充てたりしていたため、軍隊輸送にはほとんど回されなかった。
陸軍では、温帯での軍隊輸送で兵員1人あたり3総トン(約8.5立方メートル)、熱帯では5総トンが必要と試算していた。すなわち兵員1人あたり2メートル四方から2.4メートル四方の空間ということだが、一般的に座敷2畳は7.6立方メートルだから、いかに狭い空間に押し込められていたかと実感できよう。
では海軍はどうだったかといえば、列国海軍のなかで最悪だったとされる。艦艇乗組員1人あたりの居住空間は、駆逐艦で1.3立方メートル=0.46総トン、巡洋艦で1.6立方メートル=0.57総トン、空母や戦艦でようやく2立方メートル=0.71総トンだった。日本海軍の艦艇ではほとんどが寝具にハンモックを使っていたから、この詰め込みが可能だった(高木惣吉『聯合艦隊始末記』文藝春秋新社、1949年)。部内から、この居住性は改善の余地がある、これでは墓穴と同じだとの声があがっても、「贅沢を言うな、豪華客船ではない、いくさ船だ」と常に無視されていた。これでは乗組員のストレスは限界に達するのも当然で、それが凄惨な私的制裁の日常化をもたらしたといえよう。