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陸軍においてのマンパワーを主体とする試算

 ところで戦前の日本は、国民が兵役義務をどこまで果たすことを期待していたのだろうか。マンパワーを主体とする陸軍においての試算を見てみたい。

 開戦直後の昭和16年12月末、参謀本部第一部の第三課(編制動員課)は、長期にわたる持久戦を戦い抜くための「基本軍備充実計画」、通称「四号軍備」の研究を始めた。この試算の一つによると、昭和25(1950)年度末までに長期持久が可能な態勢にすることが目標とされた。その基幹戦力には、師団120個以上、航空中隊1000個が必要と試算された。そしてこれを達成するには507万人の動員が求められ、加えて補充要員として270万人の召集が必要と見積もった。

 昭和15年の日本人の総人口は7200万人だったから、これでは近代国家の動員限界とされる10パーセントを超えてしまうが、法律を改正して朝鮮や台湾で徴兵を行なうことも計算に入れ、インドネシアなどでの「兵補」の募集にも期待したのだろう。

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 骨幹となる日本兵が700万人とすると、国民にどれほどの兵役を課さなければならないかだが、陸軍省で予算と編制を扱う軍務局軍事課の試算では、次のようになっていた。まず現役の服務期間を2年から3年に延長し、その後1年帰休とする。次いで予備役として3年召集、また1年帰休、さらに2年召集するという体制にしなければ700万人態勢は維持できないとしていた(前掲『昭和陸軍秘録』)。加えて、この2年の帰休においては農業生産に励んでくれというのだから、国民を絞るだけ絞るということになる。

後のことを考えず「根こそぎ動員」

 この「四号軍備」の実施は時期尚早とされ、昭和17(1942)年7月に保留とされた。ところがこの計画を青写真として本土決戦準備の「根こそぎ動員」が昭和20年2月から実施された。その結果、終戦時には陸軍で640万人(朝鮮人26万人、台湾人13万人を含む)、海軍で160万人(朝鮮人1万人、台湾人1万8000人を含む)、全軍で800万人を数えることとなった。これで日本の動員率は11.47パーセントに達した。まったく機械化されていない農業を営み、しかも女性の労働力を組織化できず、朝鮮半島などからの労働力の移入も治安問題から本格化できなかったにもかかわらず、それでいて動員率が10パーセントを超えたことは驚くべきことだった。酷評すれば、その後のことを考えなかったからできたとも言えよう。

 日本人の思潮としては、完膚なきまでの敗北を喫したということへの反省よりも、「やれるだけのことはやったのだ」「できるだけのことは試みたのだ」というある種の満足感に浸りがちだ。戦中の日本で指導的な立場にあった政治家、高級官僚、将帥の多くが、敗戦となってから妙に清々しい出家した人のような態度に終始した理由は、このやるだけやったという自己満足によるものだったように思われてならない。国民に極限までの負担を強いておいて、自分たちだけが満足感を享受するとはどう受け止めればよいのだろうか。(#2に続く