太平洋戦争において、日本軍特有の「戦い方」が敗因となったと思われる事例は数多く存在するといわれる。軍事史専門家である藤井非三四氏の著書『太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方』(集英社新書)では、同氏がそうした日本軍の「戦い方」を詳細に分析、現代社会にも通じる日本社会との構造的共通点を指摘する。太平洋戦争を通じて明らかになった日本人の組織ならではの特徴とはいったいなんだろうか。ここでは、同書の一部を抜粋し、戦時下における日本の向こう見ずな動員戦略について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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日本の動員戦略
日本陸海軍は各国軍と同様、動員戦略を採っていた。平時から戦時所要の兵力を維持し続けることは財政的にも不可能だから、平時は教育主体の部隊を維持し、そこから生まれる予備兵力の厚みに期待する。平時から維持して教育訓練にあたる平時編制の常設師団を動員によって戦時編制の野戦師団とする。平時の最後となる昭和12年度を見ると、平時編制の常設師団は人員1万1858人・馬匹1592頭となっていた。これが戦時編制に移行すると、動員により人員2万5375人・馬匹8197頭に膨れ上がる。
そして出征した師団の残置人員を核として、もう一個の野戦師団を生みだす計画を持っていた。これが「二倍動員」と呼ばれるものだ。これによって生まれた師団は「特設師団」と呼ばれていた。大正14年から常設師団は17個となっていたから、戦時編制では2倍の師団34個が上限という計算になる。明治40(1907)年に定められた「帝国国防方針」では戦時所要を50個師団もしくは40個師団としていたが、現実を見ればこれは日本の国力では到底達成できない数値目標だとされていた。
ところが昭和12年7月に日華事変が始まり、用兵側から師団の増勢が強く要請された。そこで臨時編制師団という形で師団を編成することとなった。しかも同年9月から臨時軍事費特別会計が議会を通過して軍事費が青天井になると、師団の新設は急ピッチで進んだ。本格的な動員が始まると昭和12年末で24個師団となり、13年末で34個師団、14年末で42個師団、15年末には50個師団となって、30数年来の数値目標をあっけなく達成してしまった(藤井非三四『帝国陸軍師団変遷史』国書刊行会、2018年)。
日本陸軍では師団を戦略単位と位置付けていたが、その師団数を4年で3倍にしたのだから、それを支える戦略基盤の拡充を同時並行的に進めなければならなかったはずだ。ところが「一銭五厘」と「国民皆兵」の呪縛から抜け出せず、兵員はいくらでも集まるものと安心していた。加えて「暴支膺懲」などのスローガンに眩惑されたのか、それとも数値目標を闇雲に追求する体質からか、「なんだ、鉛筆の先だけで戦略単位を生み出せるではないか」と安易に考えるようになった。