小銃不足の深刻化
そこで生まれた致命的な問題は、すぐにも露呈することとなる。装備の基本中の基本である小銃の不足で全軍が悲鳴をあげる事態となってしまった。長年にわたって想定していた対ソ戦では、人口過疎の広漠地において一定の戦線を形成して押し出していくのだから、自然と後方部隊は掩護される形となる。ところが中国戦線では、民衆の海のなかで作戦することになるため、後方諸隊も十分に自衛しなければならなくなり、小銃が不足するようになった。死傷者が残したものが部隊や患者集合所などに集まるものの、縁起が悪いといってだれも手にしたがらないし、それを回収して再交付する準備が整っていないから、小銃不足はすぐにも深刻化した。
こうした事態を受けてまずは保管装備を回し、次に学校教練で使っているもののうち状態がよいものを回収して戦線に送っていた。ところがその程度では、需要を満たすことはできない。さらに間が悪いことに、昭和14(1939)年に口径7.7ミリの99式小銃が制式化され、生産ラインが口径6.5ミリの38式歩兵銃から切り替わる時期がちょうど迫っていた。国内ではとても対応できないとなり、昭和13(1938)年末に三菱商事を代理店として緊急輸入を行なうという話になった。すぐに駐独武官がチェコスロバキアのブルーノ社に向かったが、納期の問題から商談はまとまらなかった。小銃も満足にないのに戦争を始めるとはと、これを知る者だれもが嘆いたという。
部隊の質の低下
大量動員による戦略単位数の増加は、用兵側にとっては満足すべきことだが、一方で常に質の低下を意識しておかなければならない。大正軍縮以来の常設師団一七個の場合、甲種合格の現役兵が回されてくるから、兵員の質は高いレベルが期待できる。それでも損耗を埋める補充兵のなかには、未教育兵も多いのだから、部隊の質は低下し続ける。
日華事変当初の特設師団では、編成当初の要員の多くは昭和16年10月まで後備役が主体だった。すなわち甲種合格で2年在営し、それから5年4ヵ月は予備役を務め、次いで10年の後備役となっている者たちだ。一応は甲種合格の現役兵として入営し教育訓練は受けているが、30歳を超えた家族持ちとなると精鋭とは言いがたいだろう。昭和12年9月、特設師団の第101師団が東京で編成されたが、これを視察した参謀本部第2課(作戦課)の部員は、兵員は年をとり、各級指揮官に現役が少ない、これで大丈夫かと懸念したそうだ。この戦力が懸念された部隊を上海戦線の激戦地に投入するのだから、無責任きわまりない話だった(井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1978年)。