陸軍の砲兵科・歩兵科にも「神様」
陸軍の砲兵科は、科学と勘が併存する世界だから、ここにも要所要所に「神様」が鎮座していた。砲側から視認できない目標を砲撃する間接射撃の場合、砲側のそばに測地の基線を設けるが、その両端には目印となる赤と白で塗り分けた標桿を直立させる。これをしっかりと正確に直立させることからして年季がいる。そして巻き尺も使わずに、これまた正確に200メートル先に標桿を素早く直立させる。ここからして砲撃の「神様」の登場だ。
そして砲兵の表芸が弾着の観測だ。砲弾の信管には、瞬発、短延期、瞬発と短延期の二働、曳火、硬目標用の弾底延期など各種ある。瞬発信管ならば弾着点に白煙があがり視認しやすいが、すぐに風に流されてしまう。短延期信管の場合、いったん弾着してから跳飛して空中で炸裂するから、弾着点がどこかを割りだすのがむずかしい。曳火信管は空中で炸裂し、それを地図上に標示するには習熟が求められる。そして修正した射撃諸元を砲側に送るのだが、これまた熟練を要する。そしてこれを受けて諸元を修正して素早く射撃する。測地、観測、通信そして射撃の「神様」がそろっていなければ、話にならないのが砲兵の世界だった。
熟練した兵員がいなければ戦力が発揮できないことは、程度の差こそあれ、どの兵科も同じだ。技術の面の問題がそう大きくない歩兵科だが、ここにも「神様」がいないと困る場合が多い。日本陸軍において歩兵の火力を支えた擲弾筒(手榴弾を投射する簡便な迫撃砲)を自由自在に使えるようになるには、徹底した錬磨が求められた。重機関銃の射手も同様で、火器の整備補修にも名人がいる。ほとんどの故障をヤスリ一丁で直してしまうのだから、これは名人というより「神様」だ。
このような世界で大量動員ということになると、育成に時間がかかる名人芸の職人が足りなくなる。名人級がいないと戦力を発揮できないといって、新編部隊はその割愛を求め続ける。既存の部隊は新編される部隊に優秀な人材を割愛するというのが「編成道義」だが、これはまず守られない。有能な者を転出させてしまえば、自分たちの任務遂行に差し障るという立派な理由があるからだ。
とくに前述した砲兵科では、この傾向が顕著だったようだ。その結果、新編部隊には腕がよい者が回ってこないことになり、戦力発揮が期待できない結果となる。そこで新編部隊は、あれこれ手間がかかる間接射撃を敬遠し、砲車を敵前に引っ張りだして直射するばかりとなる。日華事変という非正規な戦争を続けたことで、軍隊の質は劣化したが、そのなかでもっとも問題だったのは砲兵科だと指摘する声が多かった。