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 急激に膨張した航空の世界も、陸海軍ともに大きな問題を抱えていた。航空機の搭乗員の育成には長い時間と多額の経費を必要とし、平衡感覚など適性の問題があってだれでもよいというわけにはいかない。そういうことで平時は大量育成は無理とされ、錬磨主義により「一騎当千」を育てていた。こうした事情は世界各国で共通していた。日本は徒弟制度による職人の育成は得意の分野で、空中戦、雷撃、急降下爆撃、水平爆撃、偵察、航法とどこにも達人がいた。また、各航空隊、飛行戦隊にも「神様」がいて、隊長の名前は知らなくとも、「神様」の名前を聞けばどこの部隊かわかるぐらい広く知られていた。

自動車の運転で機械に馴染んでいたアメリカ

 これに対して米軍は、空軍の急速な拡張のためにパイロットの大量循環・大量育成に挑んだ。もともとアメリカの青年は自動車の運転で機械に馴染んでいたため、これが米軍の強みとなった。米軍では第一線で実績をあげたエース・パイロットを後方に下げ、教官として後輩の育成に当たらせるシステムを作り上げた。これは『呉子』治兵篇が説く、「一人学戦、教成十人、十人学戦、教成百人……」=[1人が戦いを学べば10人を教え成し、10人が戦いを学べば100人を教え成し……]の実践だ(前掲『中国の思想第一〇巻 孫子・呉子』)。米軍が採用したこの育成手法を知った日本軍は、これを機械主義と名付けた。

 この要員の大量養成と航空機の大量生産とをもって米軍は、日本軍を航空消耗戦に引きずり込んだ。当初は日本軍の錬磨主義と米軍の機械主義が拮抗していたが、いつしか多勢に無勢の「数は絶対」となり、どんなに卓越して神の領域に達していた搭乗員もいつかは食われてしまう。これを補充しようにも、とにかく「神様」なのだからすぐにとはいかず、部隊の戦力は低下の一途をたどる。

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 では日本はどうすべきだったのか。空戦の達人を1年も南方戦線に縛り付けて消耗させてしまうのではなく、機を見て内地に呼び寄せ、休養を取らせつつ後進の教育に当たらせ、また戦線に復帰させるというローテーションを確立させれば、また違った結果となっただろう。優秀だからといって一方的に負担をかけ続ける戦い方は、一時的には成果を収めるだろうが、永続的にとはいかない。才能のある者ばかりを酷使し、結局戦力をなくしてしまったのが日本軍だった。