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軍紀違反を繰り返し「地獄の更生施設」送りに…不良日本兵が耐え抜いた“特殊教育”の全貌

陸軍教化隊・軍隊の地獄部屋 #2

2021/03/31

source : 文藝春秋 1970年8月号

genre : ニュース, 社会, 歴史

 戦時中の日本軍には、軍紀違反を重ねる不良兵だけを収容し、“特別教育”によって更生を試みる特殊部隊があった。陸軍教化隊と呼ばれたその部隊には、『利殖競馬入門』などの著書もあるグラフィックデザイナー、金丸銀三氏も入隊していた。

 そもそも軍隊内部で起きた軍紀違反行為への罰則は隊内の営倉(禁錮室)への収容が一般的で、禁錮期間1日~2日が軽営倉、長期にわたるのが重営倉と呼ばれた。さらに悪質な違反行為があった場合は軍法会議で裁かれ、衛戍地(駐屯地の意)に置かれた軍刑務所(本記事内では「衛戍監獄」)への収監となる。しかし、それでも犯罪行為を続けた不良兵や累犯の脱走兵は、姫路の陸軍刑務所を転用した教化隊へ送り込まれたのだ。

 選りすぐりの不良兵士が集まった“最後の更生施設”では、一体どんな教育が行われていたのか。金丸氏が1970年に「文藝春秋」誌上へ寄稿した「陸軍教化隊・軍隊の地獄部屋」を抜粋して掲載する。(全2回の2回目/前編から続く

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 陸軍教化隊は、その前身を懲治隊といい、西郷隆盛が大将のときに、ドイツ陸軍の体制を模範としてつくられたという。懲らしめ治めるところだから、気に入らなければ斬り捨て御免、地獄絵さながらであったとか。

 大正末期、軍隊の近代化とともに、名も教化隊と変えたし、昭和の御代に地獄でもなかったが、ここは戦地なみの特殊地域とされ、戦時逃亡、戦時抗命はその場で銃殺もよし、生殺与奪の権は部隊長にあった。重営倉は衛戍監獄なみとおどかされ、成績がよければ原隊復帰もできるとさとされては、変わり身もいよいよさだまる。ここは一番、いい子でつとめあげよう。

演習中に昼食を食べる日本兵たち(1930年代に撮影。陸軍教化隊とは別部隊) ©AFLO

「選ばれた少数」の40人は、3分の2が地方での前科者で、すでに階級は剥奪されているが、兵隊だけでなく将校もいた。全国で1カ所だから海軍の船のりもいる。陸海将兵みな平等に同じ釜のめしを食ったわけだが、起居をともにするのではなかった。同じへやに雑居させては何をやるかわからない。謀議でもされて反乱でも起こされては、と全員が個室住まいである。日本軍隊で兵隊が個室にはいれたのは、営倉でなければ教化隊だけであろう。

島流しにされた“軍隊の神様”たち

 木造兵舎に6畳の広さで、窓には鉄格子、三尺四方の便所はのぞき窓つき、ベッドも中央にあって、普通兵舎の軍曹級だ。食事は普通兵食、起床6時の消灯9時と、そのあたりは軍隊どこでも同じだが、この40人に上官が120人、つまり1人の教化に将校と下士官と兵隊の3人がつきっきりという特別待遇だ。しかも部隊長は中佐で金鵄(きんし)勲章が3つ、以下、軍曹も伍長も全員が金鵄勲章を持っているという精鋭(エリート)ぞろい。いずれも実戦で殊勲を立てた軍隊の神様たちなのだ。衛兵にしても射撃章やらなにやらベタベタの優秀な兵隊が、全陸軍からえらばれて1年任期の派遣兵として来ている。勲章はおろか肩章もないフダツキどもの模範としては、ありがたすぎるくらいのものだ。

 こんなゼイタクをと考えてみると、これは彼らにとっても一種の島流しであったと思われる。軍隊も組織であるからには、神様や田中新兵衛はかえってじゃまだったのではないか。企業でいえば、営業で抜群の成績をあげても管理職になるだけのセンスはない、といったところだろうか。彼らは教化に熱心であり、私的制裁などはまったくなかった。懲らしめたり痛めつけるのではなく、まともな兵隊に鍛えあげることに、一所懸命であったようにみえた。