戦時中の日本軍には、軍紀違反を重ねる不良兵だけを収容し、“特別教育”によって更生を試みる特殊部隊があった。陸軍教化隊と呼ばれたその部隊には、『利殖競馬入門』などの著書もあるグラフィックデザイナー、金丸銀三氏も入隊していた。
そもそも軍隊内部で起きた軍紀違反行為への罰則は隊内の営倉(禁錮室)への収容が一般的で、禁錮期間1日~2日が軽営倉、長期にわたるのが重営倉と呼ばれた。さらに悪質な違反行為があった場合は軍法会議で裁かれ、衛戍地(駐屯地の意)に置かれた軍刑務所(本記事内では「衛戍監獄」)への収監となる。しかし、それでも犯罪行為を続けた不良兵や累犯の脱走兵は、姫路の陸軍刑務所を転用した教化隊へ送り込まれたのだ。
選りすぐりの不良兵士が集まった“最後の更生施設”では、一体どんな教育が行われていたのか。金丸氏が1970年に「文藝春秋」誌上へ寄稿した「陸軍教化隊・軍隊の地獄部屋」を抜粋して掲載する。(全2回の1回目/後編に続く)
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昭和18年6月のその日、姫路の空はどこまでも青く澄みきっていた。その紺青の中、行く手には白鷺城がきわだってそびえているはずであったが、あたら名城も、空襲の目標よけとかで金網をかぶせられ、灰色の羽をつぼめて立ちすくむ形であった。それはちょうど、私がこれからむかえる、未知の「教育」への不安におびえているのを哀れんで、ともにうなだれてくれているようにもみえた。
私は軍服を着てはいたが、肩章ははぎとられ、帯剣もなく、両わきを2人の上官に守られて、東京から13時間、護送されてきたのである。私たちがたずねあてたところは、姫路城内の一角、まるで実業家の住みそうな立派な邸宅であった。石塀に植え込み、玄関には飛び石さえ配して、奥庭にはうっそうと茂る樹々……。門前に銃を支えて立つ衛兵さえいなければ、だれがこれを軍隊の建物と思うであろうか。しかし、ここはまぎれもない帝国陸軍の一部隊、その門柱にかけられた六尺の木札には、墨痕あざやかに大書して曰く――「陸軍教化隊」と。
これこそ日本にただ1カ所、フダツキ犯罪常習兵を収容し、教化更生させようという、特殊部隊である。その存在を当時の軍人の何人が、また、姫路市民のだれがその正体を知っていただろうか。収容されるものわずかに40名。今次大戦に参加した日本軍600万人の中の「選ばれた少数」なのである。
かつての“愛国少年”が見た軍隊
私がここに送られてきた理由は、たびかさなる反抗、脱柵、暴行のためであったが、軍隊用語でいう地方(シャバ)にいたころからのフダツキでは、決してなかった。
東京は浅草鳥越の生まれ、下町のガキ大将として育ち、満州の匪族に負けない強い兵隊さんになることをめざしてからだを鍛えていた、愛国少年だったのだ。そのままいけば、おそらく護国の鬼となって九段の三業地を横目でにらむことになったのであろうが、長じてデザインの道に進み、銀座に軟派の風を吹かせたことから、だいぶ風向きが変わった。