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 もちろん私は話を聞いただけで方針を変更した。これにさからった日にゃ、からだがいくつあっても足りねぇや。われながら都合よくできてると思ったが、それからは改悛の情あきらかに、優等生でとおした。この変わり身、切り替えの決断は、重営倉5回で知った軍隊生活の知恵でもあろうか。反抗にもTPOがあるというわけだ。

「オッ、軍法会議帰りの金丸を知らねぇか」

 8カ月を無事につとめあげて原隊に復帰すると、どうしたことか古年次兵たちが下へもおかぬもてなしぶりで、結構な二等兵生活が再開した。と、そのままなら「教化隊」にも縁がなかったが、私の人生は例外づくりの人生であった。

 すでに18年の春、敗色しのびよるころで、太平洋沿岸の築城陣地用に大量の地図が必要となり、私は近衛師団の作戦部要員として分遣された。そこでおどろいたのが隊の構成だった。兵隊100名に、師団長以下下士官まで250名。東部軍司令部では50対300にもなる。当然のこと人手不足で、兵隊が大事にされる。たとえば食事後の食器洗いを、兵長も初年兵も平等に各自がやる。

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 不平等なところから来た私は、心中おだやかでない。ハナッからこうなら、重営倉もくわずにすんだ。この野郎、ぶったるみやがって、てめぇたち、軍隊はこんなもんじゃねぇぞ、といまや立場は逆転し、私がなぐる側へまわった。

「オッ、軍法会議帰りの金丸を知らねぇか」

 このタンカに、わが身のかわいい連中は、「こいつにかかずりあうと大変だ」と、黙ってしまう。傍若無人の荒れ方がたちまち師団長の耳にはいる。これは捨てておけない、金丸を分離しよう、残る行先は一つ、中部軍直轄の姫路の教化隊だけである。が、師団長権限では勝手に送れない。近衛師団長から東部軍管区司令官へ、さらに中部軍管区司令官へと申し送られ、ついに金丸銀三の教化隊入りが決まった。「軍人としての修養をせよ」

後編に続く

※掲載された著作について著作権の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部にお申し出ください。

奇聞・太平洋戦争 (文春e-book)

文藝春秋・編

文藝春秋

2015年7月21日 発売