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終戦、75年目の夏

「日本人は同胞の肉を食べるのか」シベリア抑留者が経験した“人肉事件”の悲しき全貌

シベリア抑留「夢魔のような記憶」 #2

2020/08/13

source : 文春ムック

genre : ニュース, 社会, 歴史

 ユーラシア・中央アジアの考古学・文化史研究の先駆者である加藤九祚氏は、戦時中、学徒動員で出征。満州国の敦化(とんか)で終戦を迎えた。直後、加藤氏はソ連軍捕虜となりシベリアに抑留されるが、そこで「どうしても忘れ切ることのできない記憶」となる異様な出来事と遭遇した。

 多くの日本人が辛苦を味わった「シベリア抑留」の現場で、一体何が起きていたのか。文春ムック『奇聞・太平洋戦争』より、加藤氏が1970年に執筆した「日本人は同胞の肉を喰うのか?」の一部を抜粋して掲載する。

 1946年5月のある晴れた日、収容所の日本人たちは2キロほどはなれた伐採場で朝から作業し、昼休みを迎えた。だが昼食後の人数点検で「波川、宮野、丹野」の3名がいなくなっていることに気づき、現場は騒然となる――。(全2回の2回目/前編から続く

◆ ◆ ◆

 3人は確かに「逃亡」したと思われた。3丁の鉈もなくなっていた。用便に行ったのであれば、鉈まで持去ることはないからである。わたしは、最初の予感通りになってしまったことが悲しかった。この「天然の牢獄」と言うべきタイガの中で、果して逃げおおせるだろうか。そんなことはできっこない。餓死して、熊か狼のえじきになるのがおちではないか。

 わたしのまわりでもこんな会話がきこえた。

「そう言えば、以前からこの3人には様子のおかしいところがあったよ。夕食後、人目をはばかりながら、なにかこそこそと相談しているところを何度も見かけたことがあるよ」

「いや、今日だって、なにを入れていたのか知らんが、ひどくふくらんだ雑嚢をもっていたぜ……」

「ああ、あのおとなしい丹野がどうしてまた、こんな思い切ったことをしたんだろう。見つかって殺されなければいいがなあ」

舞鶴港に上陸したシベリアからの引き揚げ者(1950年)

 まもなく、小隊長みずから数人の歩哨をつれてやってきた。彼らはすでに袋状のリュックを背負い、わたしたちが「マンドリン」と称していた自動小銃を肩から下げていた。ふつうピストルしか帯びていない小隊長も「マンドリン」で武装していた。彼らはもはやタイガの中へ捜索に出かける用意をととのえていた。

 小隊長は鋭い目つきでトカレフ(※1)を詰問し、規律を厳正にするよう命令した。そして5人の手兵をともなってタイガの中に消えていった。

(※1)20代半ばのロシア人軍曹。この日の歩哨長を務めていた。

これから先どうなるだろうか……

 わたしはそのとき、誰だったか小さい声でこんなことを言ったのをおぼえている。

「首謀者は波川伍長だと思うよ。波川はいつか、逃亡したって、ひと月くらいの食糧はなんとでもなると言っていたから……」

 午後の仕事は、きびしい監視のもとで行なわれた。トカレフはかわいそうなほど落胆して、無口になっていた。彼の除隊はまた延期されるのではないだろうか。

 その日は収容所に帰ってからも、誰もが異常な心理状態におちていた。ソ連側の人びとも忙しそうに右往左往し、みんな機嫌が悪かった。

 夜はよく晴れあがり、タイガには人を酔わせるような樹液の匂いがたちこめていた。わたしたちはみんな一体いつ故郷に帰れるのだろうか、これから先どうなるだろうかという不安と危惧を抱きながら眠った。わたしは昼間の疲れにもかかわらずその夜は熟睡することができず、めずらしく夜中に尿意をもよおして外に出た。冬ほどではなかったが、北国の空には星がいまにも降ってきそうなほど豪華にきらめいていた。それは地上のさまざまな憂苦とはなんのかかわりもない、永遠の光をなげていた。