ビフテキくらいの厚さに切られた“肉”
大隊長とわたしは所長に呼ばれて馬車のそばまで行った。馬車の上にあるのは明らかに死骸と思われた。携行天幕がかけられてあったので、死骸の状況はわからなかったが、外から見ても、生きものとは考えられなかった。天幕の上から、落ちないように縄のかけられていることがその証拠であった。
――やっぱり殺されたのか。わたしは暗澹(あんたん)とした気持になって、全身から力が抜ける思いであった。
そのとき収容所長は言った。
「この3人の死骸を収容所の庭にある二本松の根もとに並べておけ。みんなによく見えるように開いておくのだ。わしの命令なしに絶対に動かしてはならない。わかったか」
3人の兵隊は馬車を松の木の下までひいていって、その根もとに携行天幕を敷いて死骸を並べた。
ああ、なんという痛ましい遺体だろう。ひとりの遺体は左半身が頭から脚まで焼けており、もうひとりは頭部だけが焼けていた。この二つの遺体はいずれも衣服をつけたままであった。残ったひとりの遺体にはどこにも焼け痕は見られなかったが、後頭部に鉈のような凶器によると思われる深い傷痕があった。また臀部から太腿にかけて皮膚がきれいにめくりあげられ、肉はそぎとられていた。その肉と思われるものが1枚の携行天幕にビフテキくらいの厚さに切って並べられ、一部は飯盒の中に入れられてあった。その肉は馬肉と同じように赤黒い色を呈していた。
わたしはそれを見て、1時間前のアントノフ大尉の言葉を思い出した。わたしは、なにか底知れぬ淵に引きこまれるような、この地上に生きていることが恥かしいような、なんとも言いようのない気分におそわれた。夕方、仕事から帰ってきた仲間たちもみんなこれを見た。誰もひと言も洩らさなかった。入れかわり立ちかわりじっと3人の遺体に眼をそそいで、沈黙のまま去っていった。3人の遺体はまる3日間そこにおかれてあったが、2日目になると、もはや誰ひとりそれを見ようとするものはなかった。
遺体はその後、馬車でブラーツクへ運ばれたが、おそらく検視をうけて、その地の墓地に葬られたものと思われる。
捜索隊は何を見たのか?
遺体の到着した日の夕方、大隊長とわたしは収容所長の事務室に呼ばれ、そこで歩哨の小隊長の簡単な報告を聞いた。それは大要つぎのようなものであった。
捜索隊は昨日の午後の捜索では明るいうちに3人の足跡を見つけることができなかった。そこで暗くなる前に一たん宿舎にひき返し、翌朝4時ごろから再び捜索に向かった。3人が逃亡した伐採地から200メートルほどのところを鉄道の予定線が通っているが、その東南方向は登り坂になっており、そこから約2キロほど行くと丘の頂上に出た。小隊長は7時ごろその頂上に達し、そこにある高い松の木によじ登って四方を見まわした。
彼は周囲の地形を観察すると同時に、もしうまくいけば、視界のとどく範囲で煙の立ちのぼっているところを見つけたいと思った。5月末とは言っても夜から朝にかけてはかなり冷えるから、3人は必ず焚火をしているにちがいないとにらんだのである。
タイガの上には朝靄(あさもや)がたちこめていたが、東南になるほどそれが薄く、一部ではそれがとぎれていた。「モンゴリ」は東南の方向へじっと眼をこらした。3人の逃げる方向が東南であろうという判断は誤っていなかった。靄の切れ目から細い煙のあがっているのがながめられた。