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軍紀違反を繰り返し「地獄の更生施設」送りに…不良日本兵が耐え抜いた“特殊教育”の全貌

陸軍教化隊・軍隊の地獄部屋 #2

2021/03/31

source : 文藝春秋 1970年8月号

genre : ニュース, 社会, 歴史

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起床から就寝まで上官3人に監視され……

 入隊すると将校も二等兵も、まず七級という位置が与えられる。六、五、四と上がって一級になればやがて原隊復帰という段どり。ところが、七級から六級へ上がる、いわば行儀見習いの1カ月は、まったくの1人きり、仲間の顔は一度も見られないのである。

 さえぎるものは林の奥にそびえる7メートルのコンクリート塀、そのこちら側で起床から就寝まで、3人の指導監視のもとですごす。午前中は専用の練兵場で演習、小さくても1人には広すぎる。「前へ進め」からはじめて徒歩教練ひととおり、敬礼の稽古をじっくりやって、そのあとが銃剣術だ。ワラ人形を相手に「トッカーン」とやっているうちはいいが、3人の上官がお相手をして下さる。いずれも段持ちの猛者だし、こちらは銃剣術をはじめてやるシロウト、打ってかかれば突き倒され倒れていればたたきのめされる。防具の上からだから「変形」はしないが、それでも全身打撲症状でうめくことになる。

 午後はもっぱら開墾である。外濠まで続く深い竹やぶの、一本々々の根を掘りおこす。四方八方に根を張っているから、押しても引いてもビクともしない。円匙(ショベル)をたたきつけるようにして切る。いいかげんバテても3人は見ているだけで、休ませない。叱咜激励されて汗みどろで下向きっぱなしというのもつらいもので、重営倉太りが、この1年で、四貫もへったほどである。

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 夜は修養の時間である。支給された教養書を読み、日記をつける。この支給される本の数が昇級ごとの資格とされるらしく、七級で週1冊の支給が、一級上がるごとに1冊増しになった。吉川英治の「親鸞」や「宮本武蔵」に感激し、もっと読みたいと申し出ても、規定の数しか許されない。雨が降れば1日中が修養の時間になる。優秀な上官と衛兵に守られ、立派な邸宅の奥で官費3食付きの優雅な晴耕雨読、ひょっとすると陸軍のリーダーを育てる隊ではないか。

ガダルカナル島で米軍の捕虜となった日本兵たち。当時、戦況は悪化の一途を辿っていた(1942年撮影) ©AFLO

過酷すぎる“コンクリート営倉”の罰

 さて、その1カ月がすぎるといよいよ仲間とご対面である。7メートルの塀の小さなくぐりからはいると、練兵場を囲んで北兵室、南兵室、東兵室と3つの兵舎があり、各級にわかれて個室が与えられている。そして確かに仲間の顔は見たのだが、なんと互いに会話することが禁じられているのだ。一口きいたら、それで重営倉である。

 コンクリート営倉に小窓が一つ、食事は1日ににぎりめし一つ、待遇は苛酷で期間は最低で1カ月、最高は決まっていないから、連隊長権限でどうにでもなる……と、これも聞いた話で、私は経験しなかった。やられていたら死なないまでも、からだをこわしていたろう。私のいた1年間で、実際に4、5人は死んだのだ。

 40人との生活も、演習、開墾、修養のくり返しだった。朝は武道場で座禅を組むことからはじまる。部隊長が禅に凝っていたので禅僧同様に「結跏趺坐(けっかふざ)」が真冬でも戸をあけはなして30分。そのあとは正座して軍人勅諭を書く。半紙に筆で書き、両手に捧げもってゆっくりと読む。「我国の軍隊は、代々天皇の統率し給うところにぞある……」これもざっと30分かかり、それからやっと朝食になる。演習、開墾、畑づくり、修養と、毎日毎日くり返すと、さすがにフダツキどももあきらめる。その態度をみて昇級させるという仕組みだ。