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 二級になって派遣兵や上官から聞いたところでは、前科何犯ものこわいのや、彫物いっぱいのおあにィさんもいた。特筆すべきは教化隊生活23年という古強者で、つまり大正10年から教化されっぱなし、青森出身、四十何歳かの気の弱そうな男だった。

史上7人目の“原隊復帰者”に

 入隊して1年、私は優秀な成績が認められて、原隊復帰がかなった。教化隊を出る日、40人の仲間は植え込みのわきに飛び石をはさんで整列し、やはり無言のまま、それはうらやましそうな顔で、私を見送ってくれた。懲治隊以来七十余年にして7人目の原隊復帰者になったこの栄誉(?)を、部隊長も祝福してくれ、派遣兵たちは口々に、「金丸、ガンバレよ」と激励してくれたが、その声よりも仲間たちの顔が、私にはいつまでも忘れられない。「どんなもんだい、やったぞ」と、腹の中では笑いたいのだが、どうしても厳粛な気持になる。神妙に頭を下げ、鍛えこまれた模範的な敬礼をして、白鷺城を背にしたのである。

 二度目の原隊復帰も、また二等兵からやり直しだが、連隊長口頭命令は申し送りで生きており、私は中隊当番を半年、そのあとはもっぱら地図を書かされた。将校にはかわいがられる、敬礼ぬきのコンチワでもとおる、かなり気ままな暮らしをさせてもらった。やがて一等兵になり、2年目の陸軍記念日(20年3月10日)には、陸軍上等兵に任ぜられた。

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 その日、東京大空襲。浅草の実家は被災し、唯一の教化隊記念品、50冊に及ぶ日記帳はすっかり焼けてしまった。

 戦後25年、私の生活はたくましくできあがった。貴重な体験だったと、決して自慢できるものではない重営倉や教化隊のようすを、笑って語れる余裕もできた。

 すでに何をうらむこともない。教化隊部隊長の、閑院宮そっくりのヒゲがなつかしく思い出され、すべては恩讐の彼方にかすみはじめている。しかし、はなやかな壮絶な戦史のかげに、かくれた歴史が真実を語ることもある。そのためにたとえ小さくとも一つの証言を残しておきたい、というのが私の気持なのである。

※掲載された著作について著作権の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部にお申し出ください。

奇聞・太平洋戦争 (文春e-book)

文藝春秋・編

文藝春秋

2015年7月21日 発売