どこ構わず積まれるガソリン入りのドラム缶の危険性
陸軍の兵員1人あたり3総トンから5総トンというのはあくまで基準にすぎない。船舶による軍隊輸送の実態は凄まじいものだった。下甲板には馬匹、装備、資材、糧食を収容する。露天甲板には各種車両、上陸用舟艇などを搭載し、烹炊所や厠が設けられる。
兵員は中甲板の船倉に収容する。おおむね中甲板の天井の高さは2.5メートル前後だが、これを木材で2層に区切る。そして各層に奥行き1.7メートル、1段60センチのカイコ棚を設ける。これで船倉1坪あたり14人まで収容できる計算だという。目刺し状では収容できないので、頭と足を交互にしてもぐり込み、寝返りはできず、不用意に起き上がれば頭を打つ。部隊からは、この兵員の最大限搭載はどうにかならないものかとの苦情が殺到したが、作戦上の要請だからとして無視され続けた(山本七平『日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条』角川oneテーマ21、2004年)。
さらにまずいことに、船倉に余積を見つけるとどこ構わずガソリン入りのドラム缶を持ち込む。これに火が付けば処置なしだ。部隊側が危険なことをいくら指摘して改善を求めても、無視されてまたドラム缶が持ち込まれる。そして露天甲板への階段も木製で応急的に設備されたお粗末なもので、衝撃が加わるとはずれてしまい用をなさない。これまた改善されないから、出入り口にロープを垂らして非常時に備えていた。
露天甲板に車両などを隙間なく積めば、非常時の対応がむずかしいし、体操もできないし厠にも行きづらいとの苦情も絶えなかった。するとこの車両はここにしか積めない、船倉の天井の高さが足りないからだと説明され、部隊側も言葉を失うほかなかった。
昨今の「自助、共助、公助」に通じる極限状態まで求められた我慢
これでよく瀬戸内海からラバウルまで、赤道を越える3週間もの輸送に耐えられたものだ。まずは、兵員個人個人の我慢に期待する。次は部隊としての助け合いを求める。そして、それでもどうしようもならなければ軍として解決に乗りだすが、そこまでにはいたらないはずと当局は楽観的に構えている。それが当時の日本軍の姿だ。この問題を敗戦後、連合軍に逆手に取られたことがある。連合軍は復員船で限界搭載を求めた。戦時中、日本軍はそうしていたではないかというわけだ。すると日本側は、体力を消耗している今、あんな限界搭載をしたならば死者が続出してしまうと泣訴して、緩和してもらったという話も残っている。
これは昨今、耳にした「自助、共助、公助」に通じるものがあるように思えてならない。手が回らないので極限状態になるまで国民一人一人の工夫と我慢に期待する。そして近所付き合いを活用し、町単位の助け合いはできないのかという。どうしようもならない状況になってしまっても、国家は大きな組織だから動きだすまで時間がかかることを理解してくれ、といって動きは鈍い。