この沖縄戦のさなか、戦艦「大和」の「水上特攻」が行われた。「大和」は沖縄の海岸に乗り上げて米軍の艦艇と上陸軍を艦砲で撃ちまくる覚悟だった。しかし、護衛の戦闘機も付かずに沖縄に出撃した「大和」は4月7日、米軍の攻撃機の猛攻にさらされて沈没した。
女性と少年も戦闘員として動員
1945年1月、大本営陸軍部は150万人の本土決戦要員の動員計画を立てた。日本の工業や農業などを支えているのは零細なものが多い。他国のように機械化され少ない労力で効率よく運営・生産されるものではなく、主として人の力、労働者の数に依存するものであった。
したがって兵力を増強するためには、既存の工場や農場から労働者を引き抜くことが避けられず、生産力を著しく低下させる。
150万人の兵力を増強するには、この年に予定されていた通常の召集兵数(50万人)に加え、農業従事者から34万5000人、工業従事者から65万人が召集されることになる。その補充として、さらに115万人の労働力が動員されなければならなかった。
3月には「国民義勇隊」の組織化が閣議決定した。15歳から55歳までの男子、17歳から45歳までの女子を対象とし、地域や職域、学校単位で義勇隊を組織し、軍の後方支援を行うのである。具体的には、輸送や食糧補給、通信連絡、監視などを行い、いざとなったら戦闘隊に移行するというものだった。
さらに6月には「義勇兵役法」が成立し、「国民義勇戦闘隊」として男子は60歳まで、女子は40歳までを兵士に準じて戦闘に投入できるようになった。実際には米軍の上陸前に日本が降伏したので、地域的な義勇戦闘隊は編成されなかった。しかし、多くの県で召集すべき隊員の名簿は作成されていて、全国で約2800万人(人口の38パーセント)が召集される義勇隊員として登録されていたと推定される。
しかし、兵力の辻褄合わせはなんとかできても、この兵力に装備させる武器がなかった。小銃も弾薬もなければ、敵と差し違えるしかなく、婦人たちに竹槍を持たせて“一人一殺”の訓練をさせた。はたまた、博物館で展示されているような青銅の大筒を引いてきたりといったありさまだった。
正規の軍隊でも、そこそこの装備で本格的な本土決戦の戦闘に備えていたのは、鹿児島の志布志湾の守備隊と千葉県の九十九里浜の守備隊のみだった。