茨城県南東部に広がる霞ヶ浦。日本で2番目に大きな湖で、夏になればヨットや水上バイクで賑わい、遊覧船も運航されている。そんな優雅な雰囲気を漂わせる霞ヶ浦の湖畔に、日本海軍の広大な基地跡が今も残っている。鹿島海軍航空隊が水上機の操縦訓練を行っていた基地だ。
終戦から78年が経った今もなお当時の姿を留めているのだが、意外とその存在はあまり知られていない。なぜならば、昨年まで基地跡が放置され、廃墟となっていたからだ。
そんな折、昨年、廃墟を戦争遺構として残そうとするプロジェクトが立ち上がり、クラウドファンディングが実施された。廃墟にも戦争遺構にも興味がある私は、2023年5月に行われた支援者向けの見学会に参加させてもらった。
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悲しみとともに侘び寂びを感じる、廃墟となった戦争遺跡
快晴の休日、現地に近づくと、まずはその広大さに驚かされる。
霞ヶ浦の湖畔に広がる広大な草原。その中に、当時の建物や遺構が点在している。大きなコンクリートの建物や、骨組みだけになってしまった建物も見える。ひときわ目を引くのは、巨大な煙突だ。それら全てが、廃墟に見える。
貴重な戦争遺跡が廃墟になってしまっている姿には悲しみを感じるが、それと同時に、諸行無常や侘び寂びといった感情も立ち上がってくる。廃墟ならではの魅力といえるだろう。
航空機を使った飛行訓練 沖縄戦では特攻にも従事
まずは、この基地の概略とプロジェクトの経緯について簡単に説明しておきたい。
鹿島海軍航空隊は、1938年に水上機の練習航空隊として発足し、基礎教程を修了した飛行練習生たちが、実際の航空機を使って飛行訓練を行っていた。その後、アジア太平洋戦争が開戦すると、潜水艦の攻撃隊なども加わり規模を拡大。内地の防衛と搭乗員の教育、そして鹿島灘における対潜作戦が主な任務となった。太平洋戦争末期には、沖縄戦において特攻作戦にも従事したという。1945年8月15日、第二次世界大戦が終結したことで、その役目を終えた。