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佐藤愛子、九十歳を語る。

「オール讀物」2013年11月号より

2013/11/05

genre : エンタメ, 読書

note

2013年11月5日、佐藤愛子さんは90歳の誕生日を迎えました。
これを記念して、「オール讀物」11月号のインタビュー記事を一部掲載します。

◆ ◆ ◆

佐藤愛子氏

――あれは八年前でしたか、築地の本願寺で、丹羽文雄さんのお葬式がありました。洋装でご焼香にいらした佐藤愛子さんの後ろ姿が凛然として、背筋はすっきりしているし、ああ、お若いなあと思ったんですよ。

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佐藤 八年前はね、若かったですよ(笑)。でも、八十にはなってましたね。来月の五日にはもう私、九十ですから。

――あのときに弔辞を読まれたのが青山光二さん、吉村昭さん、大河内昭爾さん。三人ともお亡くなりになりました。

佐藤 おととい亡くなられた山崎(豊子)さんが、私より一つ下ですよ。「週刊新潮」で連載を始めたばかりで、無念だったでしょうね。

――山崎さんは大正十三年。川上宗薫さん、吉行淳之介さんと同年ですよね。

佐藤 菊村(到)さんはもっと下ですか?

――もう一つ下です。その菊村さんが亡くなったのが、十四年前、一九九九年でした。佐藤さんと一緒に、菊村さんの世田谷のお寺に行きましたよね。

佐藤 ああ、そうでしたね。

――ちょうど桜が散ってきて、佐藤さんが「菊村さん、いいときに亡くなられたのね」とおっしゃられたんです。

佐藤 いやあ、ほんと、お友達がいなくなっちゃった。大村さんとは、私が直木賞をとる前からのお付き合いですね。まだ無名で相手にしてくれる編集者なんていないのに、大村さんだけは相手にしてくだすって。

――最初に芥川賞の候補になった『ソクラテスの妻』を読んで、大変な才能があると思いました。昭和三十八年です。

佐藤 あのときは河野多惠子さんが受賞なさったのね。『ソクラテスの妻』はあちこちに掲載を断られ、同人誌推薦作ということで「文學界」に載ったんですよ。

――小松伸六さんや駒田信二さんが同人雑誌評で褒めていましたよね。佐藤紅緑先生のお嬢さんには文才があるという噂があって、われわれも注目していたんですよ。だから佐藤さんは最初のときに芥川賞か直木賞をもらって、七、八年早く出てもよかったと思っていたんです。

佐藤 いやいや、駄目でしたね。もらわなくてよかったと自分で思いましたよ。あのあと『二人の女』というつまらない小説が芥川賞の候補になりましたね。それから『加納大尉夫人』が直木賞の候補になって……『加納大尉夫人』は自信作だったんですよ。それが落とされたんで私、「訳のわからん選考委員の選ぶような賞はいらん」って(笑)。平気でそういうこと言ってたんですよ。無名だから何言ってもかまわないじゃないですか。みんな聞き流すでしょ。

――あの頃、芥川賞をとった田辺聖子さんと佐藤愛子さんで「愛と聖だな」と話していました(笑)。

佐藤 大村さんとの最初の仕事は、佐藤紅緑のことを書いた『花はくれない』でしたね。講談社から出してもらって。

――あれは昭和四十二年。

佐藤 よく覚えてらっしゃるわねえ。

――私は『花はくれない』で直木賞を、といれこんでいたんですよ。今読んでも、いい本です。でも、候補にもならなかった(笑)。あの頃は立原正秋さん、五木寛之さん、野坂昭如さんと、もっと若い世代の人たちが塊になって出てきたんです。佐藤さんが『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞されたのは昭和四十四年、もはや証文の出し遅れの感がありました。

佐藤 あれが受賞するとは思いませんでしたねえ。『加納大尉夫人』の方がずっとよかった。

――でも、当然の受賞だったと思いますよ。

佐藤 あれも大村さんに勧められて書いた小説でしたね。田畑麦彦(佐藤愛子の元夫)の会社が倒産したことを大村さんが知って、それを題材に「小説現代」に書きました。五十枚ぐらいでしたっけ。

――そんなに長くなかったですね。

佐藤 私はもっと大きな小説、バルザックのような人間喜劇にしたかった。このテーマを五十枚で切り売りするのは嫌だなあと思ったけれど、お金が欲しかったものでね。当時の編集長は『戦いすんで日が暮れて』というタイトルが戦争を思い出させるからよくないって(笑)。副編集長の大村さんが「これでいいんです」と言ってくれたんです。大村さんで直木賞をとれたようなものですよ。だから借金をかえせたのも、大村さんのおかげで(笑)。

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