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「私は富士山を見たことがありません」元中日・英智が明かすプロフェッショナルの「Myスタイル」

文春野球コラム クライマックスシリーズ2023

2023/10/19
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 私は富士山を一度も見たことがありません。

 これはシーズン中、移動で利用する新幹線の車窓からの眺めの話です。プロ野球生活で一軍に帯同するようになってからなので、コーチ業を含めると実質約20年間、富士山を見ていないことになります。

 ご存知の通りドラゴンズの一軍は関東方面へ新幹線で訪れます。目的地の横浜、東京へ到着するには必ず静岡を通過します。

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 静岡といえば自ずと思い浮かぶのが、日本の象徴、富士山です。私にとって普段お目にかかれない富士山は、一目見るだけで心を豊かにしてくれる大好きな存在です。そんな気持ちになるのは私だけではないでしょう。しかし、シーズン中に幾度となく往復してきた新幹線の車窓からは、富士山を一度も見たことがないのです。これがMyスタイルでした。

 移動中は終始体を休めることに努めていたので、新幹線に乗り込んだら真っ先に光をさえぎるためにブラインドを下げます。富士山を通過するあたりは、ちょうど眠ってしまっているタイミングにもなっていました。

 基本的にシーズン中は、外を眺めるエネルギーも使いたくない心境でした。移動は自由な時間といえども試合のことを考え、知らず知らず細心の調整をしていたのです。まぁ、それはおそらくプロとして当たり前の姿であって、同じ車両に乗り込んでいる同僚も同様に皆ひっそりと過ごしていましたから、何の不思議もありません。

現役時代の筆者・英智 ©時事通信社

プライスレスだった「車窓AIRバッティングセンター」

 この新幹線でのMyスタイルは、二軍暮らしになるとまた大きく変容します。

 ドラゴンズの所属はウエスタン・リーグですから、西日本方面に新幹線で向かいます。マネージャーから配布されるチケットは一軍とは違い指定席です。あの包み込まれるリラックス空間のグリーン車の座席とは少し異なります。

 体への負担を考え、追加料金を自腹で支払い、アップグレードしてグリーン車に乗り込む選手は何人かいました。それは現在でも同じでしょう。体が資本のプロ野球選手ですから、長時間の移動で体が壊れてしまっては元も子もありません。実際に福岡への移動なんてかなりキツイというのは体験済で、腰も張りますし背中も張ります。

 ただ、私の中での正解は、“球団から与えられた適正なチケットそのままの指定席に座る”でした。これが二軍でのMyスタイルです。多少腰が張ろうが背中が張ろうが関係ありません。この張りが嫌なら“すぐさま一軍に上がれば良いだけ”の話です。一軍にいられない悔しさからくる自分への戒めといった具合でしょうか。一度たりともグリーン車に変更はしませんでした。

 車内でやることも変わります。ブラインドもあえて閉めず、流れる景色を目で追います。これは動体視力を鍛える目のトレーニングです。まさに“流れる建物が投手の投げるボールと化す”のです。鋭く横切る目標物のスピードはかなり速く、あの藤川球児投手の投げるボールでも敵いはしません。

 この「車窓AIRバッティングセンター」は、幸い目的地に到着するまでは何球打ってもフリーでありプライスレス。本当に打撃で苦しんでいた時には、広島駅から名古屋駅にまでの間、ずっと窓の外を眺めて流れる景色で打撃練習をし続けた記憶があります。納得のいく打ち方を探し、試行錯誤をしながら考え続けていたら「えっ、もう名古屋⁉」という感じでした。

 もちろん座席が窓際ではない時もありますから、そういう時は仕方なく腕組みをしたまま静かに目を閉じ、真っ暗闇から飛んでくる無数のイメージしたボールを打ち続けていました。二軍暮らしの移動の際には、それくらい打撃のイメージを湧かせていたのです。なのに、あれくらいの成績しか残せない。それは厳しい世界なのです。

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