文春オンライン

連載明治事件史

「木片に打ち付けられた五寸釘を踏み抜き、10キロ走って逃げた」脱獄6回、晩年は劇団を率いて懺悔話で各地を行脚…“伝説の脱獄王・寅吉”という男

「木片に打ち付けられた五寸釘を踏み抜き、10キロ走って逃げた」脱獄6回、晩年は劇団を率いて懺悔話で各地を行脚…“伝説の脱獄王・寅吉”という男

「五寸釘寅吉」#2

2023/10/22

genre : 歴史, 社会

note

 今回登場するのは「五寸釘」の呼び名で知られる西川寅吉。無期刑4回、有期刑は年数が数えられないほどといわれる強盗常習犯で、刑務所に入れられては抜け出し、「脱獄6回」の最高記録を持つ。あだ名は、逃走時に木片に打ちつけられた五寸釘を踏み抜き、そのまま2里半(10キロ)走って逃げたとされたことから生まれた。しかし、晩年は模範囚に。釈放後は劇団を率いて、日本領だった樺太(サハリン)まで各地を回り、懺悔(ざんげ)話で稼いだ。最後は畳の上で穏やかな死を迎えたが、彼の軌跡は小説、講談、浪曲、舞台劇、さらには映画になって世間に知れ渡り、彼のエピソードのほとんどが事実かどうか分からなくなった。

 いまから百数十年前、彼を「伝説の悪のヒーロー」に祭り上げたものは何だったのだろう? 今回も当時の新聞記事の見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場。敬称は省略する。(全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

わずかな作業賞与の中から妻子に送金…驚くほどの“改心”ぶり

 強盗常習犯の囚人でありながら入監と脱獄を繰り返し、世間の注目を集めていた寅吉。しかし、無期徒刑で釧路分監に収容されていた時に心境の変化が訪れる。『樺戸集治監獄話』によれば、1897(明治30)年、英照皇太后(孝明天皇の女御)逝去に伴う恩赦で減刑が行われた。この時に自分の年齢と残りの刑期を計算すると、残刑が52年1カ月余りあるのに対して自分は43歳。考えるところがあったのだろう。それから態度に著しい変化が見られるようになった。

 独居房から雑居房に移監されたのち、1901(明治34)年、釧路分監が閉鎖。網走分監に移されると、模範囚として獄内での待遇が変わっていく。『樺戸監獄』は「在監最長者で同囚たちの畏敬の的であった。年とともに作業も軽くなり、さらに雑役、そして清掃夫と作業内容が変わっていき、工賃も次第に増えていった」と記述。重松一義『博物館網走監獄』(2002年)は「網走監獄の表門を毎朝掃除する『晒(さい)掃夫』という、最高の名誉ある、信頼ある囚人に据えられています」と書いている。網走での20年間、叱責されたのは、舎房の扉のガラスを誤って割ってしまった1件だけ。わずかな作業賞与の中から年2~3円(現在の3万2000~4万8000円)を郷里の妻子に送金し、便りも出していたという(『北海道行刑史』)。驚くほどの“改心”ぶりだった。

博物館網走監獄の正門の前には模範囚として掃除をする寅吉の像が(博物館網走監獄のHPより)

都新聞で「五寸釘」をベースにした小説の連載が始まった

 寅吉が釧路にいた1899(明治32)年1月3日、都新聞(現東京新聞)は「近世實(実)話 五寸釘寅吉」の連載を始めた。「五寸釘」の犯罪をベースにフィクションを交えた波乱万丈の冒険犯罪小説。無署名だが、筆者は2年前に入社した記者で劇作家・演劇評論家の伊原青々園だった。

31歳のころの伊原青々園(『都新聞史』より)

 当時は日本が日清戦争(1894~1895年)に勝利。償金で大規模な軍備拡張が行われる中、「武士道」が声高に叫ばれて軍人のステータスが上がり、世の中には野蛮な「バンカラ」の気風があふれた。新渡戸稲造の『武士道』が英文で発表されたのもこの年だった。そんな時代の風潮にも乗って小説は読者から大喝采を浴び、早くも5月には単行本『都新聞探偵實話 五寸釘の寅吉 前編』(金槙堂)が刊行されて大人気になった。