文春オンライン

連載明治事件史

「釘を踏み抜き10キロ逃走」「石狩川にかかったケーブルを綱渡り」…“明治の脱獄王”と呼ばれた「五寸釘寅吉」とは何者だったのか?

「釘を踏み抜き10キロ逃走」「石狩川にかかったケーブルを綱渡り」…“明治の脱獄王”と呼ばれた「五寸釘寅吉」とは何者だったのか?

「五寸釘寅吉」#1

2023/10/22

genre : 歴史, 社会

note

「五寸釘(くぎ)」といって、いまの時代、どれくらいの人が分かるだろうか。丑三つ時、根深い恨みから、わら人形を木に打ちつける――。あの時に使う大きな釘のことだ。

 今回登場するのは「五寸釘」の呼び名で知られる西川寅吉。無期刑4回、有期刑は年数が数えられないほどといわれる強盗常習犯で、刑務所に入れられては抜け出し、「脱獄6回」の最高記録を持つ。あだ名は、逃走時に木片に打ちつけられた五寸釘を踏み抜き、そのまま2里半(10キロ)走って逃げたとされたことから生まれた。しかし、晩年は模範囚に。釈放後は劇団を率いて、日本領だった樺太(サハリン)まで各地を回り、懺悔(ざんげ)話で稼いだ。最後は畳の上で穏やかな死を迎えたが、彼の軌跡は小説、講談、浪曲、舞台劇、さらには映画になって世間に知れ渡り、彼のエピソードのほとんどが事実かどうか分からなくなった。

 いまから百数十年前、彼を「伝説の悪のヒーロー」に祭り上げたものは何だったのだろう? 今回も当時の新聞記事の見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場。敬称は省略する。(全2回の1回目/続きを読む)

ADVERTISEMENT

◆◆◆

新聞で「五寸釘・西川寅吉」の脱獄が報じられる

「五寸釘寅吉」についての新聞記事は極めて少ない。その1つは1882(明治15)年10月3日付東京横浜毎日新聞。日本初の日刊紙である横浜毎日新聞が一時東京に進出した際の名称だ。記事では「虎吉」となっているが、「五寸釘・西川寅吉」のおそらく最初の脱獄を報じている。

 一昨30日午後7時30分、横浜本町5丁目の監獄支署で未決囚6人が第1号室の雪隠(便所)を破って逃亡した。同署詰めの署員らは大いに驚き、すぐ手配してうち2人を逮捕したが、石川県生まれの磯田常松(25歳3カ月)、伊豆(静岡県)生まれの宮下萬吉(32歳11カ月)、伊勢(三重県)生まれの西川虎吉(29歳6カ月)、上州(群馬県)生まれの本田重吉(27)の4人はいまも行方が知れないという。

おそらく最初と思われる寅吉の脱獄を報じた東京横浜毎日新聞

 新聞記事が少ない以上に、「犯罪実話」として虚実が入り混じった「物語」が世間に広められた結果、何が事実なのか、どこからがフィクションなのか、はっきりしない点が山ほどある。重松一義『北海道行刑史』(1970年)のような書物にも虚構が交じっており、出身地である三重県の『三重県警察史第3巻』(1966年)さえ、「犯歴の概要は、巷説によれば次の通りである」と書いている。彼の経歴も資料によって異なる。死に至るまでの足どりを克明に追い、比較的信頼できる寺本界雄『樺戸集治監獄話』(1978年)を中心に、疑問点にも留意しながら見ていこう。同書によると、寅吉の身上は次のようだ。

族籍 三重県多気郡上御糸村(現明和町)大字佐田無家 

平民 農(業) 西川寅吉

安政元(1854)年3月15日生

身長 4尺9寸6分(約150センチ)

体重 13貫400匁(約50キロ)

 身長約150センチというと、当時でも小柄だが、胸囲は2尺6寸8分(約81センチ)というから、かなりがっちりした体格だったようだ。