「石狩川に架かったケーブルを猿のように綱渡りして逃げた」
とても全てが事実とは思えないが、驚くような脱獄術といえるだろう。「猿(ましら)」ではなく「魔修羅」と表記した資料もある。山谷一郎『網走刑務所秘話』(1985年)には、標茶集治監に寅吉と同じ三重県出身の看守部長がおり「五寸釘寅吉は伊賀忍者の末裔だから、絶対に油断がならんぞ」と言っていたという記述がある。
『樺戸監獄』は3回の脱獄を詳しく書いている。それによれば、1回目は3月。屋外での作業の際、他の囚人2人が作業に使っていた棒で看守に襲いかかったのに便乗して3人で逃走。奪った看守の帯剣で2夜連続押し込み強盗をしたが、5日目に逮捕された。鉄の玉は1貫目ずつ両足に付けられることになったが、寅吉は付け替えに来た看守の頭をけって気絶させ、逆に看守を房に閉じ込めて逃走した。
この際、寅吉は独居房を出るとき、水でぬらしてきた獄衣を塀にたたきつけ、それを足場にして高さ18尺(約5.4メートル)の塀を乗り越え、石狩川に架かったケーブルを猿のように綱渡りして逃げたという。つまり、『網走刑務所』に書かれた「レジェンド」は、この時の脱獄をもっとドラマチックに脚色したということのようだが、塀の高さを考えれば、こちらにもフィクションが交じっているのは明らかだ。
盗賊でありながら一種の英雄的人気者となっていく
寅吉が半年逃げ回った後に逮捕されて樺戸に連れ戻された後、再度の脱獄に意欲を燃やし、大豪雪の屋根の雪下ろし作業で鎖も鉄玉も外された機会に、屋根から下ろされた雪が塀と同じ高さになったのを狙って塀を飛び越えて脱走。3カ月目に捕まって連れ戻されたが、今度は仲間が作った合鍵で3度目の脱獄に成功したと、『網走刑務所』は書く。本州に渡り、富山、大阪、神戸、岡山から九州まで行ったが、福岡で捕まったという。しかし、同書はその後、空知集治監に収容されたとしており、やはり入監歴と合わない。さらに同書は「レジェンド」をこう書く。
彼の脚力は、1日に道もない山や野を40里(160キロ)もはやてのように走り抜けるといわれる。この脚力で官憲の追跡を振り切り、きょう札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌、さらに宗谷辺りまで駆けまくり、神出鬼没の逃避を続けながら小樽、札幌の豪商や留萌、増毛の「ニシン大尽」の土蔵を破る。盗んだ金はばくちに湯水のように遣う一方、貧しい開拓農家や稼ぎ人の家へ、闇夜にまぎれて投げ込んでいく。いわば罪の償いともいえることをやってのけたので、庶民からは「五寸釘は義賊だ」ともてはやされた。五寸釘寅吉の名はこのことによって一段と世の脚光を浴び、盗賊でありながら一種の英雄的人気者となっていく。
そんな寅吉に心境の変化が訪れたのは無期徒刑で釧路分監に収容されていた時だった。