押送された「樺戸監獄」で身元がばれ、足に鉄の球がつけられる
「五寸釘寅吉」といえば「樺戸」の名が浮かぶほど、彼は代表的な囚人だった。「月形村史」(1942年)によれば、樺戸集治監は1881(明治14)年9月、北海道樺戸郡須倍都(スベツ)の荒れ地に開設された。初代典獄は内務官僚の月形潔で、須倍都は彼の名を取って月形村(現月形町)となる。開設時に収監されたのは39人。その中に寅吉もいたとする資料が多いが、入監歴とは食い違う。これも「レジェンド」か。明治政府は士族の反乱などで懲役囚が激増したことから、逃走防止と懲役労働の「一挙両得」を図って、北海道に集治監を次々開設。服役囚は未開地開墾、炭鉱採炭など過酷な労働を強いられた。「月形村史」は「本監(樺戸集治監)を北海道に新設し、囚徒を収集せしめらるるは、その主旨もっぱら開墾農耕にあり」(原文のまま)と明記している。
「樺戸集治監獄話」などによれば、寅吉が樺戸集治監に送られたのは1889年9月。満35歳になっていた。実は寅吉はこの4年前、初めて北海道に送られ、空知集治監で幌内炭鉱の採炭作業に従事していたとき、脱獄に成功して、そのまま行方不明とされていた。樺戸行きの罪は1889年1月に神奈川県で商店に強盗に押し入った件だったが、身元を明かさず「西村安太郎」の偽名で押し通し、有期徒刑15年の判決を受けて樺戸に押送された。『樺戸監獄』によれば、樺戸では初犯として雑居房に入れられていたが、ある日かつて空知にいた看守に見つかって身元が判明。すぐ独居房に移され、足には重さ1貫(3.75キロ)の鉄の玉がくくりつけられたという。
「小便を吸収した獄衣を使って脱獄」
計6回とされる寅吉の脱獄のうち、3回は樺戸だったが、『樺戸集治監獄話』には内容の記述がない。『網走刑務所』には比較的詳しく書かれているが、明らかに年代が合わない。「レジェンド」の1つとして紹介する。
明治20(1887)年の夏、寅吉たち15人の囚徒が集治監の塀の中で構内作業をしていた。高さ3メートルもある塀の内側での作業だったから、監視に当たった2人の看守も気を緩めて囚徒たちから目を離し、立ち話を始めた。この時、背の低い寅吉の周りを取り巻くように、囚人たちが立ちふさがる。寅吉は素早く木綿の赤い獄衣(囚人服)を脱いで地面に置くと、それに囚人たちが交代で小便をかけ始める。赤い獄衣は見ているうちに小便を吸収してグッショリと色鮮やかにぬれていく。1人がその獄衣の端が塀の外に垂れるように思い切りたたきつけた。寅吉はその張り付いた吸着力を利用して塀を身軽に駆け登り、一瞬の間に塀を乗り越えてしまった。驚いた看守は「脱監囚だ。五寸釘が逃げたあッ」と叫びながら正門へ回って追いかけたが、寅吉は獄舎の横を流れる石狩川に架けられた荷物輸送用のケーブルに飛びつき、猿が木を渡るような身軽さでアッと言う間に対岸に渡り、林の中に姿を消してしまった。