21歳から70歳まで、50年に及んだ寅吉の獄舎生活
同書は、公文書を確認したと思われる寅吉の入監歴を一覧表にしている(「監獄署」「集治監」などは全て現在の刑務所に相当)。
1.渡会監獄署(三重県) 明治8(1875)年入監
2.横浜監獄署 明治15(1882)年入監
3.三重監獄署 明治17(1884)年入監
4.東京仮留監 明治18(1885)年、22(1989)年、26(1893)年
5.空知集治監(北海道) 明治18年入監
6.樺戸監獄署(同)=樺戸集治監 明治22年入監
7.宮城集治監 明治25(1892)年入監
8.埼玉監獄署 明治26年入監
9.釧路分監(北海道) 明治26年入監
10.網走分監(同) 明治34(1901)年~大正13(1924)年9月3日
「樺戸」は「監獄(署)」などに何回か名称を変更しているが、文中は「集治監」で統一する。この表を見ても、同じ『樺戸集治監獄話』の中の記述とも食い違いがあるのが分かるし、樺戸には少なくとも3回入監しているはず。それだけ「五寸釘レジェンド」が行きわたっているということだろう。同書は「寅吉の獄舎生活は明治8年、21歳の時から始まって大正13年、70歳に至るまでの50年に及んでいる」と述べるが、確かにすさまじい人生といえる。
死刑は免れたが、一生獄からは出られない
刑の中身を同書で見ると、無期徒刑4回(放火未遂、持凶器強盗、強盗・強姦、強盗累犯)、(有期)徒刑15年1回、懲役1回、重禁固刑2回の計8犯。無期4回というのは、当時は指紋照合がなかったため、偽名を名乗って初犯を装ったからという。殺人は犯さなかったので死刑は免れたが、一生獄からは出られない。それが脱獄に走らせる動機になったとされる。脱獄の回数も日時も資料によって違うが、『樺戸集治監獄話』によれば、脱獄に成功したのは6回。東京横浜毎日が報じた脱獄は2回目の横浜監獄署入監時だったことになる。『樺戸集治監獄話』と佐藤清彦『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(1995年)は6回の脱獄を次のようにまとめている。
1.明治17年11月(三重監獄署)
2.明治18年3月(同)
3.明治19年5月(空知集治監)
4.明治24年3月(樺戸集治監)
5.明治24年5月(同)
6.明治25年10月(同)
入監歴とはほぼ符合するが、東京横浜毎日の記事にある脱獄は抜け落ちている。さらに、作家、細田源吉の「樺戸監獄夜話」(「刑政」1955年1月号所収)によれば、寅吉自身、晩年樺戸監獄署跡を訪れた際、「釧路、秋田でも脱獄した」と告白。劇団の「公演」でもそう語っていたようだ。自分でも「レジェンド」か事実かが分からなくなっていたのかもしれないが、正確な事実は不明と言うしかない。
寅吉の“本業”は博打、特に花札賭博で、イカサマはお手のものだったという。「週刊現代」1963年2月14日号「北海道庁を悩ます1万人の無法者(アウトロー)」という記事は、樺戸集治監を紹介する中で寅吉のこんなエピソードを載せている。