「8歳からけんかに明け暮れ」「14歳の初犯で無期懲役に」
山谷一郎『網走刑務所』(1982年)によれば、出生地は伊勢神宮に近く、昔からお伊勢参りで行き交う街道筋で繁盛しており、博打の盛んな土地柄だった。寅吉は気性が強く敏捷で、8歳ぐらいからけんかに明け暮れ、13歳くらいになると、相手がいないほど強くなって、村の青年たちから一目置かれていたという。寅吉をかわいがってくれた叔父がいたが、大変な博打好きで、深みにはまって家や田地田畑を借金のかたに奪われた。
苦し紛れに手を出したイカサマがばれ、博打打ち一家に袋だたきにされて死んでしまった。寅吉は日本刀を引っ提げて深夜、その家に殴り込み、寝ていた親分の脚に切りつけ、肩にも一太刀。次の部屋に寝ていた子分4人の脚にも次々切りかけ、逃げる際に家に火をつけた。『網走刑務所』は、寅吉を文久元(1861)年生まれとし、これが14歳の初犯で、死刑を免れ、無期徒刑(現在の無期懲役)になったと書く。明治7(1874)年のこととされ、後年、劇団を率いての「公演」の口上でも紹介されたという。
「兄弟ゲンカ」が最初の犯罪か
だが、『樺戸集治監獄話』に加えて、1986(昭和61)年2月10日付北海道新聞夕刊で、北海道在住の作家、千田三四郎氏は、寅吉の出身地の役場に当たって安政元年3月15日生まれと確認している。安政元年の干支は「甲寅」だから、「寅吉」の名前と符合する。とすれば、明治7年は満20歳、数えで21歳となり、「14歳」はあり得ない。「14歳の敵討ち」は、明らかに“盛った”エピソードを含んだ、いわば「五寸釘レジェンド」の1つだったのだろう。『樺戸集治監獄話』によれば、寅吉の足どりの要旨は次のようだ。
〈12歳の時、父が死亡。男4人兄弟のうち、次男、三男は家を出て奉公に。長兄と2人で母を支えて農業を続けたが、暮らしは貧しかった。長兄は気性が荒く、農作業でもたびたび寅吉を叱り、折り合いが悪かった。1873(明治6)年、結婚。次の年には子どもも生まれた。ところが翌1875(明治8)年、理由は不明だが寅吉が戸主に。長兄との仲は最悪になった。田の水を流してくれないことからけんかになり、腕力ではかなわないと小刀を取り出した。警察沙汰になり、「闘殴罪」という罪名で懲役2年の刑を受けた。これが彼の最初の犯罪という。〉
腕力の点など、『網走刑務所』の叙述とはだいぶ様子が違うが、こちらの方が事実に近そうだ。2年後に郷里に戻ったが、世間の風は冷たく、悪い仲間に誘われて強盗の見張り役を務め、逮捕されて「持凶器強盗」で懲役7年の刑。出所すると、今度は奉公に出たまま行方知れずになり、窃盗などの犯罪者になっていた2歳上の三兄が現れ、寅吉に強盗のてほどき。捕まって横浜軽罪裁判所で審理を受けた。こうして「五寸釘寅吉」の犯罪人生は続く――。