明治時代の「毒婦」といえば、この「明治事件史」シリーズの第1回で「夜嵐お絹」を取り上げた。今回の主役はその数年後、「お絹」以上に名をはせた「毒婦」の代表格、高橋お伝。
「男に見境がない性的異常者で、ハンセン病に侵された2番目の夫を毒殺。愛人とのただれた生活の果てに、金に困り、色仕掛けで借金を依頼した男の首をカミソリでザックリ。捕まって斬首される間際、愛人の名を叫び続けた」――。一般に流布されているのは、悪の限りを尽くした「毒婦」の姿。お伝をモデルにした仮名垣魯文による小説『高橋阿傳夜叉譚』(1879年)はベストセラーになり、何度も映画化された。
しかし、それらの物語は「夜嵐お絹」と同様、草双紙などで作り上げられた虚構が入り混じっている。新聞報道も当時は「読み物」志向で全面的には信頼できない。はたして「毒婦お伝」の実像はどんなものだったのか。そこには、時代の何が反映されていたのか。文中、いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。公文書による正式な名前は「高橋でん」だが、一般に知られた「高橋お伝」で統一する。(全2回の1回目/後編を読む)
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「姉の敵討ち」とでたらめの書き置き
「夜嵐お絹」同様、高橋お伝についても新聞記事は多くない。事件発生と逮捕が東京の各紙に一斉に報じられたのは1876(明治9)年9月12日。自由民権運動が活発化し、西日本各地で発生した士族の反乱は翌年の西南戦争にまでつながる。新聞記事はまだ美文調の文語体が主流で、変体仮名が使われているうえ、段組みも見出しもなく、全部がベタ(1段見出し)記事だった。現代では非常に読みづらい。当時、最も購読者が多かった読売の記事を、なるべく当時の雰囲気を残しながら整理して紹介しよう。事件の大筋はこれで分かる。
少し古いが、先月27日に(東京)浅草蔵前片町の「丸竹」という旅人宿で、1人の男を殺した女の一件のあらましはこうだ――。