ハンセン病を患っていた、お伝の夫・波之助
このことは事件に特異で悲劇的な色彩を加える。立川昭二『病気の社会史』(1971年)によれば、ハンセン病は紀元前2400年ごろのエジプトのパピルスにも記録されており、日本でも律令体制の時代から知られていた。原因不明で体が蝕まれることから「不治の病」とされ、人々から「天刑病」などと忌み嫌われた。波之助が死亡して間もない1874(明治7)年、ノルウェーのハンセンが病原菌を発見。日本では、漢方医の後藤昌文が1872(明治5)年にハンセン病病舎を設立し、1875年(明治8)年には専門病院「起廃病院」を開設した=藤野豊「『毒婦物』文芸の社会的背景」(「民衆史研究」1992年11月号所収)。
草双紙の筋書きでは、お伝が波之助に後藤の薬を飲ませたとか、後藤の診察を受けようとしたなどとされている。明治政府が対策として予防に関する法律を制定し、療養所への隔離を始めるのは1907(明治40)年まで待たなければならなかった(酒井シヅ『病が語る日本史』、2002年)。お伝は、波之助の治療のために養家から受け継いだ田んぼを売るなど、困窮の生活に陥っている。病気のために地域にいられなくなったのが実情だろう。横浜でも波之助の治療費に困って、外国人相手の「洋妾(ラシャメン)」のようなことをしていたらしい。
在野の歴史家・田村榮太郎の「妖女列伝」(『田村榮太郎著作集第5巻』所収、1960年)で訂正・補足すれば、経歴はこうだ。東京裁判所の調べでは「群馬県・上野国・利根郡下牧村44番地・平民・九右衛門養女・禅宗・高橋でん・26歳2カ月」。同村33番地に住む九右衛門の実弟勘左衛門からの養子とされたが、勘左衛門の実子でもなく、お伝の実母・春は妊娠して勘左衛門に嫁いだ。実の父は沼田藩・土岐氏の家臣・廣瀬半右衛門で、春が廣瀬の屋敷で働いている時に関係。庶子(正妻以外の女性が産んだ子)にもできなかった。家老とする資料もあるが、「妖女列伝」は否定。お伝は波之助の前に一度婿を迎えているが、気に入らず離縁したという。
獄中で指を噛み切り、血で手紙を書いた
東京絵入新聞は9月13日付記事に、逮捕されたお伝が獄中で指を噛み切り、紙のこよりを使って血で書いた市太郎宛ての手紙の内容をスクープしている。