明治時代に「毒婦」の代表格として名をはせた、高橋お伝。「男に見境がない性的異常者で、ハンセン病に侵された2番目の夫を毒殺。愛人とのただれた生活の果てに、金に困り、色仕掛けで借金を依頼した男の首をカミソリでザックリ。捕まって斬首される間際、愛人の名を叫び続けた」――。一般に流布されているのは、悪の限りを尽くした「毒婦」の姿であった。
しかし、草双紙などで作り上げられた虚構が入り混じっている。新聞報道も当時は「読み物」志向で全面的には信頼できない。はたして「毒婦お伝」の実像はどんなものだったのか。そこには、時代の何が反映されていたのか。文中、いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。公文書による正式な名前は「高橋でん」だが、一般に知られた「高橋お伝」で統一する。(全2回の2回目/前編を読む)
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「殺意を起こしてカミソリで殺害、金を奪ったと認定する」
借金を依頼した男・吉蔵をカミソリで殺害して逮捕されると、自白と否認の供述を転々と繰り返していたというお伝。その後、裁判がいつ始まったのか、審理はどう進められたのか、判決はどうだったのか。当時はすぐには報道されなかった。記事が各紙に載るのは刑が執行された後の1879(明治12)年2月1日。うち東日、朝野、郵便報知に載っている判決文を見る。
その方儀、後藤吉蔵の死は自死で自分の所為(せい)ではないと申し立てていたが、第一に吉蔵を殺害したなどの書き置きと、当初警視庁分署ならびに明治10年8月10日、糾問判事に対する供述、第二に医師の診断書、第三、今宮秀太郎の供述、第四、旅人宿・大谷三四郎らの供述、第五、宍倉左太郎の供述、これらの証拠によれば、自殺でないことは明白。そして、廣瀬某の落胤(落としだね)と言い、あるいは異母姉の復讐と言うが、姉が生きていた証や証人らの言うことも、はたして姉が本当に生きていたことを裏付けるわずかな証拠にもならない。
これは結局、復讐に名を借りて自分の犯行を隠すために持ち出した逃げ口上と判断する。そうして見れば、こびを売って吉蔵を欺き、金を得ようとして果たせなかったため、殺意を起こしてカミソリで殺害。金を奪ったと認定する。よって刑は人命律謀殺条第5項で斬罪を申しつける。
今宮秀太郎は犯行後、お伝のカミソリを研いだ人物で、「人命律」は当時の刑法典「新律綱領」の条項。判決文は一部分かりづらいところもあるが、お伝の言い分を真っ向から否定している。既に定着していた「毒婦お伝」の見方に影響を受けたようにも思える。大審院(現在の最高裁判所)の承認を受けた死刑判決が1月29日だったことは『斷獄實録』に載っている記録で分かる。
お伝の“斬首”は判決から間を置かず執行された
当時は判決から間を置かず刑が執行されたが、お伝の死刑執行日がいつだったかは資料によって違う。東日の記事は「法廷から台に乗せて市ヶ谷の刑場へ送られたが、裁判所内で獄吏を見ると、『長々ご厄介になりました』と一々礼を言い、悪びれた様子は少しも見えず、さすがに大胆なものだと驚かない者はなかったという」と書いており、即日執行のようだが、30日説、31日説もある。