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お伝を演じたのは「一世を風靡した女優」

「毒婦お伝」はその後も小説や演劇、映画に取り上げられた。1925(大正14)年には松竹下加茂撮影所で『お傳地獄』が野村芳亭監督で映画化。お伝役は若手スター柳さく子だった。さらに1934(昭和9)年、読売新聞に連載された邦枝完二の小説『お傳地獄』が非常な人気を集め、翌1935(昭和10)年、新興キネマ京都で再び映画化。監督は石田民三で、「ヴァンプ(妖婦)女優」として一世を風靡した鈴木澄子がお伝を演じた。映画はヒット。主題歌「お傳地獄の唄」も流行した。戦後も新東宝、大映、東映でお伝の映画が製作、公開されている。そうして高橋お伝は「毒婦」「妖婦」の代名詞であり続けた。

映画『お傳地獄』(1935年)でお伝を演じた鈴木澄子(『無声映画俳優名鑑』より)

地元では「毒婦」のイメージはなかった

 しかし、地元群馬での評判はだいぶ違う。「始めは本当に貞女で波之助の病気を治したい一心で上京するわけなんですが、その辺までは大変よかったのでしょうけれど、夫の病状が悪化して亡くなってしまうと、その辺からやはり、上州特有の行動的で奔放な性格が出たのじゃないかと、そんなふうに思いますね」。『群馬の歴史と伝説民話 第1集』(1976年)で地元・月夜野町の住民はこう語っている。「地元の人たちの一般的な意見とすれば、お伝はそう毒婦ではなかったのだということ、夫の病気を治したい一心からこうした行動に出たのだという意識を持っている方が大多数のようです」とも。

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 切り落とされたお伝の頭部についても後日談がある。篠田鑛造『明治開化奇談』(1943年)中の「高橋阿傳と髑髏(どくろ=骸骨)」という1章。それによれば、お伝の首は刑場での押さえ役2人の手に入り、そこから漢方医が購入。珍奇な話題になった。刑の執行から10年後の1889(明治22)年3月。40歳ぐらいの旅の僧が漢方医の家を訪れた。「俗名小川市太郎と申し、高橋お伝の情夫のなれの果てです。突然参ったのは、お伝の髑髏に一目お会わせ願いたいと越後路からまかり越した」。漢方医の問いに、僧は共犯とみなされて一時獄中にあったが、犯罪に無関係と分かって釈放されたと答えた。