1ページ目から読む
2/6ページ目

 死刑執行の模様は、立ち合った、のちの衆議院議員高田露の「毒婦高橋お傳の斷末魔」(「無名通信」1910年3月号所収)という文章の要点を見よう。高田は1877(明治10)年の西南戦争で西郷隆盛の軍に加わり、禁錮5年の刑で服役中。当時は服役囚に死刑執行を見せる習慣があったらしい。

色は透き通るほど白く、凄みを帯びた美人だった

 刑場は市ヶ谷監獄の裏手、老杉がうっそうとした中に50坪(約165平方メートル)ばかりの黒塀がめぐらしてある。その黒塀の中こそ、生ける地獄の辻なのだ。

 

 毒婦ながらも女は女だけに、高橋お伝の最期は誠に取り乱した見苦しいものだった。お伝はなるほど美人だった。六尺(約180センチ)の男子を悩殺する魔力、美の魔力をたしかに持っていたと思う。日の目を見られぬ長年の獄中生活にいくらかやつれが見えていたが、色は透き通るほど白く、長面の中肉。いわゆる凄みを帯びたという方の美人だった。

 

 着衣は白のさらし木綿で、目隠しをされていたことは確かだ。さすがに奸悪なお伝も、しおしおを引かれるままに、一歩一歩、死の影を踏んで枠の前まで来た。斬首所へ引かれ入ったのだ。

明治時代の浮世絵師・小林清親が描いたお伝。『明治文学名著全集第5巻』(1927年)より

斬首の直前、男の名を呼んでわめき騒いだ

 110年以上前の文章で女性差別的な表現もあるが、いよいよ刑の執行と思われた時、予想外の事態が起きる。

 ところが、悪党にも似ず至極往生際の悪い女で、いまになって「申し上げることがございます。どうぞお聞きなすってくださいまし。申し上げることがございます」と身をもがき、果ては男の名を呼んで猛り狂ったので、獄吏も、鬼神をしのぐ首切り浅右衛門もしたたか弱らされたらしい。ついに無理やり引き倒して、引き倒されまいとヒーヒー声でわめき騒ぐ口を押えて一太刀浴びせたが、いつになく切り損ねた。鬼の首斬り浅右衛門も毒婦の狂乱に思わず気が引けたらしい。

ADVERTISEMENT

 文中にあるように、斬首役は有名な山田浅右衛門。代々引き継がれた名前だが、1881(明治14)年の斬首刑廃止で最後の名跡となった8代吉亮だった(8代の弟で「9代」とする資料もある)。浅右衛門はさらに太刀を振るうが、お伝は男の名前を呼びながら暴れ回るので、なかなか首を落とせない。もがいたために木綿の目隠しが下がり、流血が頬を流れる凄惨な場面となった。

 血走った眼光鋭く、浅右衛門をにらみつけてさらに狂いのたうち回るさまは悪鬼羅刹(人をだまし血肉を食う悪鬼)を思わせたが、獄吏総がかりで二度三度押し倒され、こうなっては到底駄目とようやく観念したのだろう。涙に曇る悲し気な声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と二、三度叫んだ。それでももがいていたが、とうとう押し倒されて首をねじ切られてしまった。おそらく浅右衛門の一生でこのくらい骨の折れたことはなかっただろう。