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 判決から約2週間後の1879(明治12)年2月12日付の東京曙には次のような記事が見える。

 近頃、斬首された悪婦お伝の遺骸を解剖したことは各新聞にも書かれているが、その解剖をした某の話によれば、豪邁(ごうまい・気性が人より強い)不敵な凶徒の多くは肉の脂が濃い。長く獄中にいると十分肉食もできないため、脂の減るものだが、お伝は4年間獄中にあっても少しも負けず、壮健で肉の脂が濃いことは、舌を巻くほど驚くばかりだという。さもあろう。

お伝の解剖を報じる東京曙

 実際には約2年半だが、ここでも、お伝の妖婦ぶりが分かるという書きぶり。新聞には出ていないが、お伝の遺体についてはもっと猟奇的な話がある。

性器をくり抜いてアルコール漬けにし、標本をつくった 

『近世悪女奇聞』によれば、解剖は浅草にあった警視第五病院で行われ、執刀したのは小山内健・軍医。「新劇の父」と呼ばれた小山内薫の父だった。「この時、小山内医師はお伝の性器をくり抜いてアルコール漬けにし、異常性欲者としての標本をつくった」と同書。小山内は解剖所見にその形状も記録。お伝の情欲が強い証拠としたというが、同書は「法律の権威を乱用した淫逆な低級趣味だったというべき」と批判している。

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 しかし、雑誌「話」(文藝春秋)1932(昭和7)年1月号に掲載された高田忠良「高橋お傳の屍體(死体)解剖に立會つ(立ち会っ)た私」によれば、解剖が行われたのは東京・下町の寺で、執刀は軍医5人。参観者が小山内、高田も含め軍医8人で、こちらの説の方が信憑性が高いと思われる。13人の中にはのちに軍医総監まで務めた大物もいるが、こちらも興味本位の「低級趣味」と言われても仕方がないだろう。

『話』(文藝春秋)1937年1月号より。お伝の「肉體(肉体)を目撃したといふ人がたつた一人生存している」として、高田が解剖に立ち会った当時の様子を思い返したものが記されている

 その標本は陸軍病院に保管されているとも、東京帝大(現東大)医学部にあるとも言われたが、京都帝大(現京大)医学部教授などを務め、人類学者でもあった清野謙次が人類学雑誌「ドルメン」1932(昭和7)年4月創刊号から連載した「阿傳陰部考」は「不思議にも、高橋お伝の 部が女気のない東京・戸山町の陸軍軍医学校の病理学教室に酒精(アルコール)漬け標本として陳列せられている」と書いている。(空白は原文のまま)

 さらに大橋義輝『毒婦伝説ー高橋お伝とエリート軍医たち』(2013年)によれば、標本は戦後、旧日本陸軍の細菌戦部隊として知られる関東軍防疫給水部、通称七三一部隊の元隊員が所有。戦争直後には東京・浅草のデパートで開かれた「性生活展」で展示され、見世物になっていたという。七三一部隊は陸軍軍医学校が母体。隊長の石井四郎・軍医中将は京都帝大出身で清野の教え子だった。七三一のネットワークが高橋お伝を取り巻いていたということか。不気味な話だ。