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愛人・市太郎は白骨を無言で撫でながら…

 その後、市太郎は山岡鉄舟(幕末の剣客で明治天皇の侍従も務めた)の元で座禅に励み、心中お伝を弔ううち、鉄舟から「夢幻」の名をいただいた。かつての市太郎は定職もなく、いかがわしいブローカーのようなことをしていたというが、事件を機に改心したのだろうか。越後の鉄舟寺で修行しているうち、ある僧からこちらに遺骨があると聞いたと話した。一両日たって再訪した僧は、差し出された白骨をしばらくの間、無言でなでながら、目頭を熱くし、胸に込み上げるものがある風情で、口から読経の声が漏れた。終わると、「後頭部に刀傷があるのは、まさしく彼女の髑髏に違いない証拠。そう思うにつけ、情の不憫さが胸を貫く心地がする」と語り、漢方医に謝意を表して立ち去ったという。

 さかのぼって1881(明治14)年4月25日付東日にこんな記事が――

 高橋お伝

 

 先に斬罪となった高橋お伝の遺骸を、愛人・小川市太郎が、お伝の養父に依頼されて小塚原から谷中墓地へ改葬の儀をその筋へ出願して聞き届けられた。石碑(墓碑)を建てることになり、本日、市太郎と柳亭燕枝が催主、仮名垣魯文翁が補助となり、同所(谷中墓地)の茶亭で供養のため、お伝の一代記を話し、取り合わせた落語を聞かせるという。念仏題目一編の回向で席料のない寄席なので、有志の各氏は勝手次第、傍聴して構わない。

 

 お伝の供養の行事に仮名垣魯文が名を連ねているのは、草双紙で「毒婦」の代表格に仕立て上げ、稼がせてもらった“罪滅ぼし”だったのだろうか。

お伝の墓碑建立を報じる東京日日

変革期に出合って急激な変貌を強いられざるを得なかった女性

 その『高橋阿傳夜叉譚』など草双紙の読み物小説を「明治初期毒婦物の考察」は「三面記事的事実談に多少の潤色を加えたものにすぎない。しかも、性格についての研究もなければ、境遇に対する洞察もなく、ただ勧善懲悪の立場から、毒婦の事件を表面的に取り扱ったものにすぎない」と酷評する。対して市立小樽文学館館長も務めた亀井秀雄・北海道大名誉教授は「毒婦と驕女」(本田錦一郎編著『変革期の文学』所収、1976年)で『高橋阿傳夜叉譚』についてこう書いている。

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 この作品に描かれていたのは、変革期に出合って急激な変貌を強いられざるを得なかった一人の女性のまがまがしい姿であり、そういう女を『毒婦』と呼んで恐れずにはいられなかったというところにこそ、当時の民衆の変革期に対する感性的な受け取り方が現われていたのである。……仮名垣魯文の作品は民衆にとって不可避・不可欠の文学であった。

五代目尾上菊五郎が聞いたお伝は「毒婦的人柄ではない」

 お伝はそういう物語として社会的に“消費”されたのかもしれない。「毒婦と驕女」は、お伝が終始能動的に行動していたことに触れ「女だてらにこういう新時代の波に乗った生き方があり得ること、それは当時の庶民には容易に納得できず、それ故、あの女は色仕掛けで男に近づいては金をだまし取っていたのだいうふうにしか理解できなかったのであろう」と述べている。『続々歌舞伎年代記 乾(巻1~36)』(1922年)は、5代目尾上菊五郎が上演に当たって小川市太郎から聞いたお伝の人となりを記している。

 罪状から考えれば伝法肌(威勢のいい気性)でいなせな女らしく思われるけれど、実際は全く異なり、従順で規律正しい。一見士族の女房ふうともいえる。決して型にはまった芝居の毒婦的人柄ではない。

 そんなお伝は、新聞や草双紙など、当時のメディアによって「毒婦」の代表格に祭り上げられた。実際に彼女が犯したのは吉蔵殺しの1件。それについて「姉の復讐」などと、彼女がでっち上げた物語も、時代の移り変わりの中で、決して幸福とは言えなかった女の自己弁護と自己陶酔の物語だったのかも。そう思うと哀れさが募る。

【参考文献】
▽綿谷雪『近世悪女奇聞』(青蛙房、1979年)
▽立川昭二『病気の社会史:文明に探る病因』(日本放送出版協会、1971年)
▽酒井シヅ『病が語る日本史』(講談社、2002年)
▽田村榮太郎『田村榮太郎著作集第5巻』(雄山閣、1960年)
▽石渡安躬『斷獄實録第2輯』(松華堂書店、1933年)
▽篠田鑛造『明治百話』(四條書房、1931年)
▽『明治文学名著全集』(東京堂、1926年)
▽大橋義輝『毒婦伝説—高橋お伝とエリート軍医たち』(共栄書房、2013年)
▽『群馬の歴史と伝説民話 第1集』(群馬歴史散歩の会、1976年)
▽篠田鑛造『明治開化奇談』(明生堂、1943年)
▽本田錦一郎編著『変革期の文学』(北海道大学図書刊行会、1976年)
▽『続々歌舞伎年代記 乾(巻1~36)』(市村座、1922年)