「消えた花札がピタリと天井に」
彼は釧路のニシン場で開かれた賭場に顔を出した。彼が手にした花札をイカサマと見破った剣客が、畳に伏せた寅吉の手の甲に間一髪ドス(刀)を突き立てて手を開かせた。だが、確かに伏せていたはずの1枚の花札は消え失せていた。剣客は面目を失って詫びを入れたが、その時、イカサマ師の寅吉はニンマリ笑って天井を指さしたということだ。そこには、瞬時自らの指を切って付けた血ノリで、1枚の花札がピタリ天井に張り付いていたという。並みいる遊び人も剣客も、彼の業師ぶりには兜を脱いだと伝えられている。
まるで一時期の東映ヤクザ映画の1シーンのようだが、当然これも「レジェンド」エピソードだろう。
五寸釘を踏み抜いたまま2里半逃げ…
あだ名として広く知られた「五寸釘」のいきさつも真偽は不明だ。多くの資料を見ても、基本的な要素はほぼ共通しているが、いつどこでどうして、という詳細になるとバラバラ。場所は静岡とする資料が多いが、熊谷正吉『樺戸監獄』(1992年)は「(三重県)松坂本町にある老舗質屋・三好屋作兵衛方へ押し入ったときのことが真実らしい」という。それはこんなストーリーだ。
夜も更けたころ、三好屋に押し入ってひと稼ぎしようと、寅吉は蔵の陰に潜んで家の中をうかがっていた。折しも三好屋は土蔵の修理中で、足場を架けて工事中だった。暗がりの中を主人の部屋へ入ろうとしたときに、表の方で、三好屋に怪しい人影があると、かねてから寅吉の後をつけてきた探偵(刑事)の声がした。こうなっては逃げるよりほかないと覚悟を決め、2階に駆け上がると、ヒラリと身をかわして往来へ飛び降りた。ところが、工事中のため、下には五寸釘を打ちつけた板切れが上を向いてあったため、寅吉はこの五寸釘を踏み抜いた。追われる身の寅吉は五寸釘を引き抜く間もなく、板切れを付けたまま2里半(10キロ)ばかり逃げ延びた。
ここまで来れば安心と、草むらに痛む足を伸ばしてホッと一息ついた。そして、踏み抜いた釘を引き抜こうと、両手を板切れにかけたところ、なんと釘は甲の骨を貫いているではないか。渾身の力を絞ってやっとの思いで引き抜いたところ、痛さは飛び上がるほどで、引き抜いた後の傷からは血潮がどくどくと流れ出た。「しまった。肝心の足を痛めちゃ、高飛びもできねえ」と、幸い近くに親の代から懇意にしている者の家まで、はうようにしてたどり着いた。ここで焼酎で傷を洗い、治療を続けているところを御用になった。それから五寸釘寅吉と言われるようになった。
歩いたのは3里(12キロ)とする資料もある。全くの作り話とは思わないが、相当“盛っている”のは間違いない。というのは、これは後年、犯罪実話小説として新聞に掲載され、その後3冊本として出版されて人気を博した筋書きとほぼ同一だからだ。いわば「五寸釘レジェンド」の筆頭だろう。