今回登場するのは「五寸釘」の呼び名で知られる西川寅吉。無期刑4回、有期刑は年数が数えられないほどといわれる強盗常習犯で、刑務所に入れられては抜け出し、「脱獄6回」の最高記録を持つ。あだ名は、逃走時に木片に打ちつけられた五寸釘を踏み抜き、そのまま2里半(10キロ)走って逃げたとされたことから生まれた。しかし、晩年は模範囚に。釈放後は劇団を率いて、日本領だった樺太(サハリン)まで各地を回り、懺悔(ざんげ)話で稼いだ。最後は畳の上で穏やかな死を迎えたが、彼の軌跡は小説、講談、浪曲、舞台劇、さらには映画になって世間に知れ渡り、彼のエピソードのほとんどが事実かどうか分からなくなった。
いまから百数十年前、彼を「伝説の悪のヒーロー」に祭り上げたものは何だったのだろう? 今回も当時の新聞記事の見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場。敬称は省略する。(全2回の2回目/前編を読む)
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わずかな作業賞与の中から妻子に送金…驚くほどの“改心”ぶり
強盗常習犯の囚人でありながら入監と脱獄を繰り返し、世間の注目を集めていた寅吉。しかし、無期徒刑で釧路分監に収容されていた時に心境の変化が訪れる。『樺戸集治監獄話』によれば、1897(明治30)年、英照皇太后(孝明天皇の女御)逝去に伴う恩赦で減刑が行われた。この時に自分の年齢と残りの刑期を計算すると、残刑が52年1カ月余りあるのに対して自分は43歳。考えるところがあったのだろう。それから態度に著しい変化が見られるようになった。
独居房から雑居房に移監されたのち、1901(明治34)年、釧路分監が閉鎖。網走分監に移されると、模範囚として獄内での待遇が変わっていく。『樺戸監獄』は「在監最長者で同囚たちの畏敬の的であった。年とともに作業も軽くなり、さらに雑役、そして清掃夫と作業内容が変わっていき、工賃も次第に増えていった」と記述。重松一義『博物館網走監獄』(2002年)は「網走監獄の表門を毎朝掃除する『晒(さい)掃夫』という、最高の名誉ある、信頼ある囚人に据えられています」と書いている。網走での20年間、叱責されたのは、舎房の扉のガラスを誤って割ってしまった1件だけ。わずかな作業賞与の中から年2~3円(現在の3万2000~4万8000円)を郷里の妻子に送金し、便りも出していたという(『北海道行刑史』)。驚くほどの“改心”ぶりだった。
都新聞で「五寸釘」をベースにした小説の連載が始まった
寅吉が釧路にいた1899(明治32)年1月3日、都新聞(現東京新聞)は「近世實(実)話 五寸釘寅吉」の連載を始めた。「五寸釘」の犯罪をベースにフィクションを交えた波乱万丈の冒険犯罪小説。無署名だが、筆者は2年前に入社した記者で劇作家・演劇評論家の伊原青々園だった。
当時は日本が日清戦争(1894~1895年)に勝利。償金で大規模な軍備拡張が行われる中、「武士道」が声高に叫ばれて軍人のステータスが上がり、世の中には野蛮な「バンカラ」の気風があふれた。新渡戸稲造の『武士道』が英文で発表されたのもこの年だった。そんな時代の風潮にも乗って小説は読者から大喝采を浴び、早くも5月には単行本『都新聞探偵實話 五寸釘の寅吉 前編』(金槙堂)が刊行されて大人気になった。