その人気の影響も現れた。1899年7月30日付読売は、東京市内で起きた3人組強盗事件で、伊勢出身の1人が逮捕され、取り調べに「先月上旬、赤坂・演伎座の『五寸釘寅吉』の狂言を見てふと悪心を起こした」と供述したと報じた。「五寸釘寅吉」は講談は邑井貞吉、浪曲は東家楽遊と、いずれも当時の実力者が口演。『樺戸集治監獄話』によると、どちらの演目かは分からないが、セリフには「誰がつけたか、一つ体に二つの名前~」という文句があったという。映画化も複数回。1912(明治45)年6月には横田商会で「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助主演で『五寸釘寅吉』が、1925(大正14)年1月には松竹蒲田で諸口十九、川田芳子の黄金コンビと安田憲邦監督によって『寅吉懺悔』が製作・公開された。「五寸釘寅吉」はさまざまな分野で人々を引き付け、長い生命を保ち続ける犯罪ロマンの定番となった。
「私のついた嘘がついに本当になった」
それでも首をかしげるのは、北海道を中心に刑務所や警察周辺では有名でも、ほとんど新聞記事になっていない寅吉がなぜ犯罪小説の主役に取り上げられたのか。その答えは伊原青々園自身が告白していた。演劇雑誌「新演藝」1919年7月号掲載の「劇評家としての三十年(四)」に「嘘から生れた五寸釘寅吉」という見出しで次のように書いている。
明治32年の正月初刊から「都新聞」に私は例の「近世實話」として「五寸釘寅吉」を書き始めた。西川寅吉という強盗の伝記である。私が「都」へ新聞小説を書いた第二の作である。材料は三重県に警官としていた高橋楯雄という人から聞き取ったのであるが、だいぶ私の敷衍(ふえん=言い換え)した所が多い。高橋氏から聞いた話によると、寅吉という男は破獄したきり、ついに行方が知れない。多分どこかで再び縛に就いた時、本名を隠していたので、前科が知れずにそのまま獄中で死んだのであろうというのであった。そうして「五寸釘」というあだ名は、小説に書くために私が仮に名付けたのであるが、その後、北海道で五寸釘寅吉と同監していたという男があったり、また五寸釘寅吉がいよいよ出獄したというような新聞記事をしばしば見た。私のついた嘘がついに本当になったのである。
書いている通りなら、「五寸釘」は伊原が命名したということになるし、ストーリーの多くは伊原の創作した嘘=フィクションだったことになる。同じ文章で伊原は邑井貞吉の「五寸釘寅吉」を寄席に聞きに行ったとき、邑井が、寅吉が五寸釘を踏み抜きながら逃げるのを、流れた血を頼りに刑事が追跡する場面で「そんなに血が出ては命がもたない」と言ったので「心の中でギャフンと参ってしまった」と漏らしている。