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 寅吉の短歌が書かれた色紙はこうだ。

胸の内つもる

思ひ(い)の雲はれて

くまなき月を見るぞうれし

 釈放の喜びを詠った歌を翌年になって興行師に書き送ったというが、歌も変体仮名を交えた字も達者で「無学」とは思えない。掛け軸も――。

西に入る夕日の影のある内に

罪の重荷を落(お)ろせ旅人

 こちらは晩年の心境をつづったといわれるが、同書も「なかなか味のあるもの」と書く。どこでそんな教養を身につけたのか。一時網走にいた典獄が寅吉に目をかけ、寅吉も慕って影響を受けたともいわれるが……。

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寅吉が自作の短歌を書いた色紙(『樺戸監獄』より)

「俺は知らんよ。自分で直接動いたことは一度もない」

「中央公論」1933(昭和8)年2月号に「泥棒哲学」のタイトルで作家の岩崎榮が“隠居”後の寅吉にインタビューした記事が載っているが、そこでは女性に対する性的暴行を徹底的に否定。『網走刑務所秘話』には、服役中、脱獄のうわさの真偽を聞きに来た看守に、寅吉は「俺は知らんよ。いつどこを脱走する時も、自分で直接動いたことは一度もない。全てお膳立てが出来上がってから牢抜けをしていたから」と答えている。確かに、寅吉の脱獄には、食事の味噌汁を口の中にためて牢の鉄格子を腐食させた“昭和の脱獄王”白鳥由榮のようなテクニックは見られない。

1933年の寅吉(「中央公論」1933年2月号より)

世間で騒がれたよりはるかに平凡だったのではないか

 それらを考えていくと、寅吉は経歴は事実だったとしても、犯罪者、脱獄者としては、世間で騒がれたよりはるかに平凡だったのでないか、という疑問が湧いてくる。そして、彼は経歴をなるべく隠し、伊原を筆頭にメディアが勝手に膨らませて作り上げた「レジェンド」に便乗しただけではないか。つまり、彼は「五寸釘寅吉」を演じていただけなのではないか――。世間がまたそれを許容し、消費して楽しんだ。そんな気がする。

 日露戦争に向かって国家による統制が徐々に強まりつつあった時期、人々は常識外れの「悪漢」を反権力の「ヒーロー」としてうっぷんを晴らし、喝采していたのではないか。その意味では「五寸釘寅吉」は大衆とメディアを含め「時代」が作り上げた「虚像」だったのかもしれない。

【参考文献】
▽重松一義『北海道行刑史』(図譜出版、1970年)
▽『三重県警察史第3巻』(三重県警察本部警務部警務課、1966年)
▽寺本界雄『樺戸集治監獄話』(樺戸行刑資料刊行会、1978年)
▽山谷一郎『網走刑務所』(北海道新聞社、1982年)
▽佐藤清彦『脱獄者たち:管理社会への挑戦』(青弓社、1995年)
▽熊谷正吉『樺戸監獄』(北海道新聞社、1992年)
▽月形村史編纂委員会編「月形村史」(月形村、1942年)
▽山谷一郎『網走刑務所秘話』(北海タイムス社、1985年)
▽重松一義『博物館網走監獄』(網走監獄保存財団 2002年)
▽『都新聞探偵實話 五寸釘の寅吉 前編』(金槙堂、1899年)
▽長谷川伸『材料ぶくろ』(青蛙房、1956年)
▽『部落問題資料文献叢書第3巻』(世界文庫、1969年)
▽『部落問題資料文献叢書第4巻』(世界文庫、1972年)
▽小山六之助『活地獄』(日高有倫堂、1910年