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東京巡業の時には入場収入の半分を要求

〈寅吉は中幕で演説する。まず身の上話である。声量が不足で、そのころはまだ拡声器がないために、何をしゃべっているのか判明しない。懺悔話を体裁に自分自身をさらし者にしていた。15分ほどで終わった。入場者200人余り。木戸銭30銭(現在の約490円)、桟敷も30銭で、当時の旅興行としては並だった。寅吉役の役者は「興行師は内地の人で、寅吉を1日5円(約8200円)で宿付きでしょう。妾と2人の宿賃もなかなかですよ。興行が不調でも、5円は必ず渡さないと『国へ帰る』と居直り、興行師も困っている」と言う。寅吉にすれば、自分あっての金もうけだと強気になっていたのかもしれない。東京巡業の時には入場収入の半分を要求したそうだ。興行の結果をこの役者に聞くと「あまり当たりませんよ。豊原はちょっと客も来たが、大泊も真岡も思いのほか悪かった」と答えた。〉

〈旅役者は楽屋に寅吉に面会に行った。胴の太い、色の黒い、何となく凄みのある面相で、連れ添う女性も色黒で、やっぱり凄いご面相。背は寅吉より少し高い。2人差し向かいで火鉢を挟んでいる。寅吉は口数は少なく、なぜか「強盗はしない」と語った。博徒の親分のように振る舞い、素性を隠す気があるように見えたという。それは僧衣でカムフラージュした寅吉の見栄ではなかろうか。生涯の幾多のエピソードを美化したかったのだろう。〉

「五寸釘寅吉」の回想談を載せた北海道新聞

最期は畳の上で人生の幕を閉じる

 一筋縄ではいかない寅吉の複雑な人間像が表れているように思える。劇団の懺悔劇もやがて飽きられていく。何人もの興行師の手をたらい回しにされたうえ、昭和の初めに埼玉・鴻巣で捨てられたというのが定説だ。それでも彼には運が残っていた。郷里の長男が地域の有力者になっており、そこに帰って平穏に暮らしたといわれる。『樺戸集治監獄話』は彼の郷里の寺院に当たって最期を確認している。それによれば、1941(昭和16)年6月22日死去。老衰で行年88歳(満87歳)だった。あの「五寸釘」が畳の上で死ぬとは!

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 日清戦争の講和条約交渉の際、下関で清国代表の李鴻章をピストルで襲撃した小山六之助(豊太郎)は、回想記『活地獄』(1910年)で、網走の作業場で一緒になった寅吉のことを書いている。「長い間の監獄疲れもあろうし、年も50を越したので、余の会った時には、本人少しボケているように見えた」「評判を聞くと、さもさも大悪党のようであるけれども、ナーニ、その実は無法無学の一傖夫(そうふ=田舎者)にすぎぬのである」。一方、『樺戸監獄』には「北海道行刑資料館」(現「月形樺戸博物館」)に保存されていた寅吉の短歌を書いた色紙と掛け軸の写真が掲載されている。