後世にまで語り伝えられる事件にはそれぞれ理由がある。被害者の人数や犯行の手口・動機などの事件のありさま、被害者・加害者の身元や事件の背景・時代状況……。しかし、今回取り上げる「三菱ケ原のお艶殺し」は、なぜ「名を成した」のかよく分からない。
女形役者くずれの「ワル」が人妻をたらし込み、別れ話のもつれから殺したとされる単純な殺人事件。被害者の「お艶」は幼いころから養女に出されるなど、苦労を味わったあげく、結婚した相手は犯罪に手を染めて収監。のちに愛し合った男も犯罪常習者で、最後は丸の内の原っぱで男に首を絞められ、ノドを裂かれて捨てられた。相手の男の供述からは、お艶が人生に絶望していたことがうかがえる。
事件はいったん迷宮入りとなり、10年後、明治から大正に時代が変わった中で、別件で収監中の男が自供して解決した。そんな、どうしようもない男による薄幸の女の殺人がなぜ明治時代屈指の著名事件になったのか。理由の1つは、のちに文豪と呼ばれる作家・谷崎潤一郎が同名の小説『お艶殺し』を事件の数年後に発表。舞台に何度も取り上げられたことのようだ。しかし、はたしてそれだけの理由で事件が当時の人々の心を捉えたのだろうか――。
今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全2回の1回目/後編を読む)
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三菱ケ原の溝で見つかった、血に染まった若い女の遺体
事件の発覚は1910(明治43)年11月11日早朝ということになっているが、新聞各紙の中で徳富蘇峰が創刊した國民新聞だけは10日深夜としている。発見者も陸軍砲兵工廠(兵器、弾薬などを製造・修理する工場)の工員や警官とした新聞もあるが、警察の正史である『警視庁史第1(明治編)』(1959年)の表記に従って「中央郵便局の配達夫」とする。
報道は報知の11日付夕刊が最も早く、他紙は12日付朝刊。当時の新聞は書き方のセオリーがなく、表現がバラバラだが、現在の記事の形式に近い12日付東京日日(東日=現毎日新聞)を見よう。
三菱原に女の屍(死)体 十日深更の殺害 手掛は懐の葉書
11日午前6時ごろ、丸の内郵便局配達夫が同所の古河鉱山会社へ郵便を配達し、その足で八重洲町1の1の三菱の原に差しかかったところ、角から2間(約3.6メートル)ばかりの小さな溝の中に、年若い女が血に染まって投げ込まれているのを発見。びっくりしてすぐ和田倉門外の交番へ届けた。
日比谷分署に急報され、東京地方裁判所から前田予審判事、金山検事、警視庁からは太田第一部長、武東刑事課長、和知医師らが現場へ出張。死体を検視した。髪は銀杏返し(若い女性の髪型)に結び、着衣は瓦斯大島(火を通して滑らかにした綿織物)の大絣の羽織に黄と紺と茶の瓦斯八丈(火を通して黒八丈に似せた綿織物)の格子の袷(裏地の付いた着物)に白木綿の襦袢(和服用下着)を重ね、メリンス薄茶地に紅入り紅葉模様の帯を締め、背は低く、顔は少し面長で、美人というほどではないが、23~24歳に見え、色白。
着衣などの描写が非常に細かいが、まだ女性は和服が圧倒的だった時代、身元を割り出す手がかりにするつもりだったのだろう。記事は続く。