近年「ルッキズム」への批判もあってミスコンには風当たりが強い。さまざまな見直しが行われ、中止になったものもある。いまから116年前、まだ14歳(満年齢。当時の表記では16歳)の市長令嬢が「日本初の全国ミス・コンテスト」とされる美人写真の公募企画で日本一となったものの、それを理由に学習院女学部を退学させられる「事件」が起きた。

 背景には当時のメディアや学校の事情、さらに女性が置かれた社会的な位置の問題が介在していた。「美人日本一」をめぐる騒動の実体はどんなものだったのか。関係した人たちはどんな言動を見せたのか。本人はどう考えていたのか――。

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、一定期間を経過した歴史的人物の敬称は省略する。(全2回目の1回目/続きを読む

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「美人写真」の募集を告げる時事新報の見開き案内記事。もともとこのコンテストはアメリカの新聞「シカゴ・トリビューン」が開催したものであり、「米国一の美人」の写真も掲載されている

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「美人は準備せよ」

 空前絶後のキャンペーンをぶち上げたのは時事新報だった。それは1907(明治40)年7月17日付の次のような大活字の記事から始まった。

 美人は準備せよ 美人を知るもの 亦又準備せよ

 

 暑気が急に募って人々が清涼を慕うこのごろ、図らずも極めて興味があり最も新奇な1つの挑戦状が太平洋の彼方の米国から飛来した。最近米国シカゴ市の新聞ツリビューン紙(=「シカゴ・トリビューン」1847年に創刊された、現存するアメリカ中西部の有力紙)が発起して同国各市の各地方新聞も賛同し、おのおのその市、その地方における美人の写真を集め、美人中の美人を選び、さらに何回かふるいにかけて最終的に米国第一の美人を選抜しようとしつつある。きのうになって突然同紙から本紙宛てに次のような電報が届いた。

 

「米国一流の新聞社数紙は4カ月間を費やして20万枚の写真を審査して米国第一の美人を選ぶことができた。われわれはこの女性を世界第一等の美人であると主張し、日本に対してこれに対抗できる美人を示すように挑む。もし応諾の趣旨を返電してくれれば、すぐその写真と競争の条件を郵送する。この競争は世界各国全てが賛同している」

「美人は準備せよ」。「美人写真コンテスト」の開催を告知する時事新報の記事

 どこか高揚感がうかがえる記事だ。日本は1905(明治38)年、国運を賭けたロシアとの戦争にぎりぎりで「惨勝」し、世界の一等国の仲間入りをしたと国民の多くは思い込んだ。

 一方、アメリカでは日本人移民らに対する排日運動が激化し始めており、日本はこの記事が出た1907年、帝国国防方針で初めてアメリカを「仮想敵」と定めた。国民の深層心理にアメリカへの対抗意識が広がっていたとも思える。記事はこう続く。

「われと思うものは準備を」「美人を知っているものは写真を」

 この挑戦状を受けてどうしてためらえようか。本社は早速応諾の返電を送った。米国一の美人の写真と競争の条件は到着次第、読者に提供する。本社はあまねく日本美人の写真を収集して日本第一の美人を選定。それをツリビューン社に送って米国第一の美人とその美を争わせる。

 

 日本は元来美人が多い。われと思う者はひるまず気おくれせず、あらかじめ応募の準備をしてほしい。また美人を知っている者は写真を送るか紹介してくれるよう希望する。